諫早イサハヤカンする年表ネンピョウ    ※諫早近代史(平成2年諫早市発行)をもとに抜粋及び加筆したものです    
  和暦ワレキ ネン 西暦セイレキ 諫早イサハヤカンする事項ジコウ リンク 国内コクナイ事項ジコウ  
1 旧石器キュウセッキ時代ジダイ     ヒラタカナガ牟田ムタ西ニシヒサシミチカク遺跡イセキ(ともにヒサマチ縄文ジョウモン早期ソウキ      
2       早期ソウキゼンノウイワカゲ(ぜんのういわかげ)遺跡イセキマチ 善納岩陰    
3       ソウマエチュウ各期カクキカワアタマ(こうがしら)遺跡イセキマチ 川頭遺跡    
4       中期チュウキユウ貝塚カイヅカ松里マツザトマチ      
5       後期コウキカゼカンタケ遺跡イセキヤブ籠井カゴイ:わりごいマチ      
6       小野オノ古墳コフンムネカタマチ弥生ヤヨイ古墳コフン時代ジダイにおよぶ)      
7       宮崎ミヤザキヤカタ(宗方町、鎌倉カマクラ時代におよぶ)      
8 弥生ヤヨイ時代ジダイ     ハヤシツジ遺跡イセキ小川オガワマチ古墳コフン時代ジダイ鎌倉カマクラ時代ジダイにおよぶ)      
9 古墳コフン時代ジダイ     ホンメイイシヒツギグン本明町ホンミョウマチ      
10       アナマツエン(うきあなあわひめ)チュウバツされる 浮穴沫媛    
11       改新カイシンミコトノリ(みことのり)により律令リツリョウ体制タイセイまれる      
12     (7世紀セイキ シュウ(きしゅう)古墳コフンがつくられる 木秀古墳    
13 大化タイカ 2 646 小野オノムネカタ川内カワチ長野ナガノカクマチ律令制リツリョウセイによる条里制ジョウリセイ施行シコウ確認カクニン   大化改新タイカノカイシン(645)、班田ハンデンオサムジュセイはじまる(646)  
14 和銅ワドウ ゲン 708 諫早イサハヤ最古サイコ平松ヒラマツ神社ジンジャ創建ソウケンされる 平松神社 ミヤコ平城京ヘイジョウキョウ奈良ナラ)にうつる(710)、「風土記フドキ」の編纂ヘンサンメイ(713)  
15 神亀ジンキ 5 728 四面シメンミヤ諫早イサハヤ神社ジンジャ)が創建ソウケンされオナ境内ケイダイ荘厳ソウゴンテラ建立コンリュウされたとツタえられる   ミヤコ平安京ヘイアンキョウ京都キョウト)にうつる(794)  
16 貞観ジョウガン 8 866 肥前ヒゼンクニ高来タカキグン大領ダイリョウ大刀ダイトウシュカレキネグン永岡ナガオカ藤津フジツらとともに、対馬ツシマコクウバおうとする謀議ボウギ発覚ハッカク   オウテンモンヘン(866)  
17 延長エンチョウ 5 927 延喜式エンギシキ完成カンセイ。ここに「フネエツエキ」がシルされる      
18 平安ヘイアン時代ジダイチュウ         清少納言セイショウナゴン枕草子マクラノソウシ(1000ごろ)  
19 紫式部ムラサキシキブ日記ニッキ(1009ごろ)  
20 平安ヘイアン時代ジダイマツ     ハヤショウ成立セイリツ   ゲンラン(1156)、平治ヘイジラン(1159)  
21 建久ケンキュウ ゲン 1190 西郷ニシゴウイタ(にしごうのいたび)がつくられる 西郷の板碑 平清盛タイラノキヨモリ太政大臣ダジョウダイジン(1167)、平家ヘイケ滅亡メツボウ(1185)  
22 正治ショウジ 2 1200 大夫ダユウスケムネ太郎タロウ大夫ダユウタカムネ父子フシ活動カツドウ   源頼朝ミナモトノヨリトモ征夷セイイ大将軍タイショウグン(1192)、承久ジョウキュウラン(1221)  
23 平家ヘイケ物語モノガタリ(1220ごろ〜1240ごろ)  
24 寛元カンゲン 2 1244     曹洞宗大本山永平寺開基  
25 文永ブンエイ ゲン 1264 長野ナガノ小太郎コタロウウジサト長野ナガノムラ知行チギョウ      
26 正応ショウオウ 5 1292 ハヤショウ、253マチ確認カクニン   弘安コウアンエキ(1281)  
27 正和ショウワ 3 1314 (9ガツ田地デンチ伊佐早庄が仁和寺ニンナジブツハハインリョウとなる   吉田ヨシダ兼好ケンコウ徒然草ツレヅレグサ(1310ごろ〜1331ごろ)  
28 ゲンオウ 2 1320 (8ガツハヤ三郎サブロウツウというものが活動カツドウ   鎌倉カマクラ幕府バクフメツぶ(1333)建武ケンム中興チュウコウ(1334)  
29 伊佐早十郎ジュウロウツウカレショウ今村イマムラナイ知行チギョウ   醍醐ダイゴ天皇テンノウ吉野ヨシノウツる(1336)  
30 観応カンオウ 2 1351 慶巌寺の名号石(みょうごうせき) 慶巌寺の名号石    
31 観応カンオウ 3 1352 (2ガツキタアサカタ小俣オマタウジレンミナミアサカタ後年コウネン伊佐早の領主リョウシュとなる西郷サイゴウ(さいごう)西郷サイゴウ次郎ジロウ居城キョジョウスギミネシロ瑞穂ミズホマチ)を攻撃コウゲキ      
32 テイ 2 1362 (9ガツ)これよりサキ伊佐早イサハヤ庄の領主リョウシュフクむとみられる中小チュウショウ土豪ドゴウクニヒトからなる高来タカキ一揆イッキムスばれたとみられる      
33 応安オウアン 6 1373 (3ガツ九州キュウシュウ探題タンダイ今川イマガワリョウシュン南朝ナンチョウカタ居城キョジョウ宇木城ウキシロ松里町マツザトチョウ)および長野ナガノシロ長野町ナガノチョウ)をとす      
34 コウレキ ゲン 1379 宇木ウキ小次郎コジロウ宇木城ウキシロもる      
35 文明ブンメイ 2 1470 西郷サイゴウナオゼン(ひさよし)伊佐早を知行チギョウ城山シロヤマ高城タカシロキズいたらしい 諫早公園 応仁オウニンラン(1467)  
36 大永オオナガ 8 1528 西郷尚善、京都キョウトオモム三条サンジョウ西ニシジツリュウ連歌レンガ指導シドウける 諫早地方の統一 ポルトガルフネ種子島タネガシマ鉄砲テッポウツタえる(1543)、フランシスコ・ザビエル鹿児島カゴシマ上陸ジョウリクキリストキョウツタえる(1549)  
37 天文テンモン 10 1541 天祐寺の六地蔵石幢(せきとう)建立コンリュウ 天祐寺の六地蔵    
38 天正テンショウ ゲン 1573 西郷サイゴウジュンギョウ(さいごうすみたか)大村オオムラ純忠スミタダ謀殺ボウサツしようとして失敗シッパイ   室町ムロマチ幕府バクフホロびる(1573)  
39 天正テンショウ 5 1577 龍造寺リュウゾウジ隆信タカノブ、西郷純尭を攻撃コウゲキ深堀フカホリジュンケン仲介チュウカイにより和議ワギ   織田オダ信長ノブナガ安土城アヅチジョウシタ楽市ラクイチとする(1577)  
40 天正テンショウ 12 1584 (3ガツ)龍造寺隆信、島原シマバラ戦死センシ、これにトモナ西郷氏サイゴウシ一族イチゾク隆信タカノブ重臣ジュウシン鍋島ナベシマ直茂ナオシゲゴコロなきムネ起請文キショウモン提出テイシュツ   本能寺ホンノウジヘン(1582)  
41 天正テンショウ 15 1587 西郷サイゴウノブナオ豊臣トヨトミ秀吉ヒデヨシから島津シマヅ追討ツイトウサンジンしなかったことを理由リユウ改易カイエキ処分ショブンわって龍造寺イエ秀吉ヒデヨシからソウキュウせられる   秀吉ヒデヨシ、バテレン追放ツイホウレイ(1587)  
42 天正テンショウ 15 1587 (7ガツ)龍造寺家晴、西郷信尚を高城タカシロ攻撃コウゲキノブナオノガる。イエ入部ニュウブ領主リョウシュとなる 諫早家の系図    
43 天正テンショウ 18 1590 (3ガツ7ニチイエ知行チギョウタカ25,502イシ豊臣トヨトミ秀吉ヒデヨシから安堵アンドされる   秀吉ヒデヨシ全国ゼンコク統一トウイツ(1590)  
44 天正テンショウ年間ネンカン   1573 〜1592、山崎ヤマサキオシエキヨシ小野オノ川内町カワチチョウ干拓カンタクオコナ 山崎教清    
45 文禄ブンロク ゲン 1592 イエ朝鮮チョウセン出兵シュッペイのためミズミナト出港シュッコウ   秀吉ヒデヨシ朝鮮チョウセン出兵シュッペイ(1592)セキハラタタカ(1600)  
46 慶長ケイチョウ 15 1610 佐賀藩サガハンから6,416イシ2フン没収ボッシュウされる   徳川トクガワ家康イエヤス征夷セイイ大将軍タイショウグン江戸エド幕府バクフヒラく(1603)  平戸ヒラドオランダ商館ショウカン開設カイセツ(1609)  
47 慶長ケイチョウ 18 1613 (10ガツ)龍造寺家晴卒去ソッキョ嫡子チャクシナオタカシ(なおのり)アトぎ「諫早イサハヤ改名カイメイ 諫早家の系図 支倉ハセクラ常長ツネナガ欧州オウシュウ出発シュッパツ(1613)  
48 元和ゲンナ ゲン 1615 佐賀藩サガハンから4,491イシ上知ジョウチされる   大阪オオサカフユジン(1614) ナツジン豊臣氏トヨトミシホロびる(1615)  
49 元和ゲンナ 9 1623 諫早イサハヤチョクタカシ(なおのり)、佐賀藩サガハン大阪オオサカ修築シュウチク総監督ソウカントクツトめる      
50 寛永カンエイ 14 1637 三代サンダイシゲケイ(しげたか)島原シマバララン出陣シュツジンする 島原の乱戦没者追悼碑 江戸エドへの参勤サンキン交代コウタイはじまる(1635)  島原シマバラ天草アマクサラン(1637)  
51 寛永カンエイ年間ネンカン   1624 〜1644 ホンメイカワ大洪水ダイコウズイ大被害ダイヒガイにあう      
52 正保ショウホウ ゲン 1644 外国船ガイコクセン長崎ナガサキ入港ニュウコウのため佐賀藩サガハンより長崎ナガサキコウ警備ケイビメイじられる   江戸エド明暦メイレキ大火タイカ振袖フリソデ火事カジ 1657)  
53 元禄 4 1691 現川ウツツガワキズカマ   井原イハラ西鶴サイカク好色コウショク一代イチダイオトコ天和テンワ2:1682)  
54 将軍ショウグン綱吉ツナヨシ生類ショウルイアワレみのレイす(1687)1709廃止ハイシ    
55 元禄ゲンロク 12 1699 8ガツ13ニチホンメイカワ大洪水ダイコウズイ溺死デキシ487メイ 損耗ソンモウ3930イシ   松尾芭蕉没(1694)  
56 赤穂アコウ四十七ヨンジュウシチり(1702)   
57 宝永ホウエイ 6 1709 カワ渓谷ケイコク五百ゴヒャク羅漢ラカンゾウ彫刻チョウコク完成カンセイ 大雄寺の五百羅漢 新井アライ白石ハクセキ幕政バクセイクワわる(1709)  
58 享保キョウホウ 3 1718 ガツ20ニチオカマチヨコマチフルマチハチテンマチ本町ホンマチタカシロマチ)で大火タイカヒャク数十戸スウジュッコ焼失ショウシツ   近松チカマツ門左衛門モンザエモン浄瑠璃ジョウルリクニセイセイジジイ合戦カッセン正徳ショウトク5:1715)  
59 徳川トクガワ吉宗ヨシムネ政治セイジ改革カイカク着手チャクシュ享保キョウホウ改革カイカク;1716) 大岡オオオカ忠相タダスケ江戸エド町奉行マチブギョウとなる(1717)  
60 享保キョウホウ 5 1720 アンテラトキカネはじまる  諫早イサハヤハジめて消防ショウボウグミができる      
61 享保キョウホウ 17 1732 ガツから8ガツにかけてイナゴ(イナゴ)による大飢饉ダイキキン      
62 寛延カンエン 2 1749 ハチダイ茂行シゲユキ(しげつら)佐賀サガハンからモノタカ4000イシ知行チギョウダカマンイシ)を上知ジョウチされる   定免サダメンセイ全面ゼンメン施行シコウ(1749)  
63 寛延カンエン 3 1750 正月ショウガツ諫早イサハヤ一揆イッキ勃発ボッパツ(〜10ガツ) 10ガツ26ニチ諫早イサハヤ一揆イッキ責任セキニン佐賀サガハンからわれ、諫早イサハヤギョウタカシ蟄居チッキョ若杉ワカスギハル処刑ショケイされる 若杉春后 幕府バクフ農民ノウミン強訴ゴウソ厳禁ゲンキン(1750)  
64 明和メイワ 4 1767 ガツ、さきに上知ジョウチした1マンイシ諫早イサハヤリョウ還付カンプ   田沼タヌマ意次オキツグ側用人ソバヨウニンとなる  
65 明和メイワ 6 1769 若杉ワカスギハル義挙ギキョタタ若杉ワカスギレイカミ建立コンリュウ現在ゲンザイ高城タカシロ神社ジンジャ境内ケイダイウツリダテ   杉田スギタ玄白ゲンパクら「解体カイタイ新書シンショ」を刊行カンコウ(1774)  
66 天明テンメイ 3 1783 ゴウコウ好古コウコカン創立ソウリツ   天明テンメイ大飢饉ダイキキン(1783)  
67 寛政カンセイ 4 1792 雲仙岳ウンゼンダケ大爆発ダイバクハツ島原シマバラ大変タイヘン 島原大変と諫早    
68 享和キョウワ 2 1802     十返舎一九ジュッペンシャイック東海トウカイ道中ドウチュウ膝栗毛ヒザクリゲ  
69 文化ブンカ ゲン 1804 ガツ13ニチ本明ホンミョウガワ大洪水ダイコウズイ罹災者リサイシャ598メイ   ロシア使節シセツレザノフ長崎ナガサキ来航ライコウ(1804) イギリス軍艦グンカンフェートンゴウ長崎港ナガサキコウ侵入シンニュウ(1808)  
  文化ブンカ 3 1806 永昌ナガマサ(えいしょう)のオカハチテン神社ジンジャトモサイ 永昌八天霊場    
70 文化ブンカ 7 1810 ガツニチ、本明川大洪水、罹災者588名 ホンメイカワハシ流失リュウシツ      
71 文化ブンカ 9 1812 伊能イノウ忠敬タダタカ日本ニホン地図チズ作成サクセイのため諫早イサハヤハイ 伊能忠敬と諫早    
72 文化ブンカ 10 1813 青木アオキソウ右衛門エモン半造ハンゾウカワソコ井樋イオケ(そこいび)マワリミズ工事コウジ完成カンセイ 半造の底井樋  青木弥惣右衛門    
73 文化ブンカ 13 1816 城下ジョウカ大火タイカ発生ハッセイ   オランダ商館ショウカンシーボルト長崎ナガサキ出島デジマ着任チャクニン(1823)  
74 天保テンポウ 10 1839 眼鏡メガネハシ完成カンセイ 眼鏡橋    
75 嘉永カエイ 5 1852 当時トウジ家臣カシン1221メイ   アメリカのペリー提督テイトク浦賀ウラガ来航ライコウ(1853)  幕府バクフ日米ニチベイ和親ワシン条約ジョウヤク締結テイケツ(1854)  
76 幕末期バクマツキ     ホンメイカワ水害スイガイ罹災者リサイシャ905メイ   安政アンセイ大獄タイゴク吉田ヨシダ松陰ショウイン処刑ショケイ(1859)  
77 慶応ケイオウ 4 1868 諫早イサハヤイチガク(いちがく)佐賀城サガジョウナイより諫早イサハヤカエ 諫早家の系図 桜田サクラダ門外モンガイヘン(1860) 徳川トクガワ幕府バクフ大政タイセイ奉還ホウカン(1867) 神仏シンブツ分離ブンリレイ(1868)  
78 明治メイジ ゲン 1868 諫早イサハヤイチガク(いちがく)キンウチ守護シュゴのため上洛ジョウラク   ガツニチ戊辰ボシン戦争センソウはじまる 3ガツ14ニチジョウ御誓文ゴセイモン発布ハップ 7ガツ17ニチ江戸エド東京トウキョウとする 9ガツ明治メイジ改元カイゲン  
79 明治メイジ 2 1869 諫早一学、ハンコトとなり諫早イサハヤ佐賀県サガケン編入ヘンニュウ   ガツ版籍ハンセキ奉還ホウカン終了シュウリョウ 長崎ナガサキ長崎県ナガサキケンアラタめる  
80 明治メイジ 3 1870 フルヤカタ廃止ハイシ   ガツ19ニチ平民ヘイミンショウユルす 本木モトキ昌造ショウゾウ活字カツジ印刷インサツハジめる  
81 明治メイジ 5 1872 諫早イサハヤ長崎県ナガサキケン編入ヘンニュウえされる      
82 明治メイジ 7 1874 佐賀サガランにより佐賀サガ出兵シュッペイ   さやんごぜんのトコロ伊東イトウカナエコレカイコロされる(2ガツ22ニチ さやんごぜんと伊東鼎之介 ガツ佐賀サガランこる  
83 明治メイジ 10 1877 西南セイナン戦争センソウ諫早イサハヤ住民ジュウミン官軍カングンとして熊本クマモト出兵シュッペイ   ガツ西南セイナンエキこる  
84 明治メイジ 11 1878 グンセイ施行シコウにより北高来郡キタタカキグンができる      
85 明治メイジ 15 1882 高城タカシロ神社ジンジャ創建ソウケン 高城神社    
86 明治メイジ 27 1894     日清ニッシン戦争センソウ(〜1895)  
87 明治メイジ 31 1898 長崎線ナガサキセン 早岐ハイキ-諫早イサハヤ-浦上ウラカミ開通カイツウ諫早イサハヤエキ開業カイギョウ      
88 明治メイジ 37 1904     日露ニチロ戦争センソウ(〜1905)  
89 明治メイジ 44 1911 島原シマバラ鉄道テツドウ 諫早イサハヤ-愛野アイノ開通カイツウホン諫早イサハヤエキ開業カイギョウ   ダイ世界セカイ大戦タイセン(1914〜1918)  
90 大正タイショウ 12 1923 諫早イサハヤマチ諫早イサハヤムラキタ諫早イサハヤムラサン町村チョウソン合併ガッペイ 諫早イサハヤマチとなる      
91 昭和ショウワ 9 1934 長崎ナガサキ本線ホンセン 肥前ヒゼン山口ヤマグチ-諫早イサハヤ開通カイツウ      
92 昭和ショウワ 15 1940 諫早イサハヤ市制シセイ施行シコウイチマチロクムラ   真珠湾シンジュワン攻撃コウゲキ(1941.12.8)太平洋タイヘイヨウ戦争センソウ  
93 昭和ショウワ 20 1945 長崎ナガサキ原爆ゲンバク投下トウカ(8ガツニチ11フン   広島ヒロシマ原爆ゲンバク(8/6、8:15)  
94 終戦シュウセン(8ガツ15ニチ      
95 昭和ショウワ 28 1953 詩人シジン伊東イトウ静雄シズオボッす(46サイ 伊東静雄    
96 昭和ショウワ 32 1956 諫早イサハヤ大水ダイスイガイ(7/25)当時トウジ諫早市イサハヤシ犠牲者ギセイシャ539メイ 大水害のあらまし    
97 昭和ショウワ 33 1957 眼鏡メガネハシクニ重要ジュウヨウ文化財ブンカザイ指定シテイ      
98 昭和ショウワ 36 1961 眼鏡橋メガネバシ解体カイタイ諫早イサハヤ公園コウエン移築イチク      
  昭和ショウワ 37 1962 ダイ観世音カンゼオンゾウ高城タカシロ公園コウエン建立コンリュウ(7ガツ25ニチ 大悲観世音像    
99 昭和ショウワ 44 1969 ダイ24カイ長崎ナガサキ国体コクタイ秋季シュウキ大会タイカイ主会場シュカイジョウ諫早イサハヤ総合ソウゴウ運動ウンドウ公園コウエン      
100 昭和ショウワ 47 1972 浦上ウラカミ平坦ヘイタンセン開通カイツウ      
101 昭和ショウワ 49 1974 野呂ノロクニノブ芥川賞アクタガワショウ受賞ジュショウ 野呂邦暢    
102 昭和ショウワ 55 1980 野呂ノロクニノブボッす(42サイ      
               
               
               
  H19-10-06更新コウシン