諫早の歴史編

 
※情報を随時追加しております。 [ 最終更新 2009-03-16 ]

 
 肥前国名の起源

肥前国名の起源
肥前風土記の編纂年代は奈良時代を下るまいと言われているが明確でない。元明天皇の和銅6年(713)5月に畿内7道に勅して国々の物産、地味、地名の起源や国々に伝わる口碑を記録して進奉したのが諸国の風土記である。肥前風土記も常陸風土記につぐ古い郷土記録である。
※肥前風土記抜粋(読み下し文)
肥前の国は、本、肥後の国と合わせて一国と為す。昔は、しきのみずかきの宮にあめのしたしろめす、すめらみこと(磯城瑞籬宮御宇御間城天皇=崇神天皇のこと)のみよ、肥の国のみちのしり益城の郡、朝来名の峰に土蜘蛛打猴頸猨二人あり。徒衆180余人をひきいておおみことにさかいてまつろいあえず。みかどのりごちたまいて、君等がおや(祖)健緒組をやりて伐たせたまふ。茲に健緒組勅をうけたまはりて悉く之をつみなふ。兼ねてくぬち(國裏)を巡りてありさまをみる。八代の郡白髪の山に到て日晩れ峯に止れり。其夜おほぞらに火ありおのづからもえやゝ下りて此山につく。かがり火の如し。時に健緒組見て驚き怪しみて、みかどのまゐりてまをさく「臣辱くもおほみことをかうむり遠く西の戎をつみなふ。刀の刃を霑さずあだども自ら滅びぬ。みいづにあらずしていかでかしかる事を得てむ」。又かがり火を擧がるさまをまをせり。天皇のりごちたまはく「まをせる事を未だきこえぬ事なり火之下れる國なれば火の國といふべし」。即ち健緒組が勳をあげてかばねを賜つて火の君健緒純(?)といふ。やがて此の國を治めしむ。火に因りて火の國といふ。後に兩國に分れて前後となれり。又「まきむく日代の宮にあめのしたしろしめす大たらし彦のすめらみこと」くまそおをつみなひ筑紫の國にいでます時、葦北の火流の浦に船ひらきして火の國にいてます。海を渡るほどに日くれぬ。夜冥くしてつく所を知らず。火の光ありて遙かに行く先を見る。天皇棹人にのりごちてのたまはく、直ちに火の処を指せとのたまへり。勅のまにまに往くに遂に崖に著く事を得ぬ、天皇詔を下したまわく「何といふ邑ぞ」と、國人まをさくことは火の國八代郡の火なり。但し火の主を知らず。時に天皇まへづきみにのらし玉はく今此のかがり火は是人の火にあらず、火の國と号る所以は其のしかるゆえをしれりとの玉へり。
<諫早市史 第1巻より(抜粋、改)>
  <諫早市史>

 
 島原大変と諫早

島原大変の時の地震の記録が「諫早日記」の中に記録されています。地震は三月一日「昼のち雨降夜ニ入六半時比(ごろ)より地震数十度続夜也」と記され、それから三月十六日まで連続して発生したことがわかります。その後七月二十日の大地震の発生をもって地震の記録は終わっています。
三月一日、諫早地方に大地震が起こり、寺社の石塔、石灯籠や所々の石垣が破損、古町の石橋梁は二つ折れ目ができたので、梁の上は桁を引き、それに数本の木を渡し、その上に板石を乗せて木柱を立て、危なくないようにしました。
諫早会所では希代の凶変について諫早領と島原藩の御境目を堅固にするため、唐比、森山の心遣いとして土井勇右衛門と末次恰に主従二人、鑓持ち一人をそれぞれつけて派遣し、この両人に対して勘弁の心を持つ取り計らい、助力を求める者に対しては憐憫をもって接し、粗忽無慈悲な対応等がないように、森山村唐比村中に告げ知らせるように指示しています。
三月十五日、諫早から島原藩主へのお見舞いとして、早田嘉左衛門を派遣しました。三月二十八日、島原からの返礼の使者、星野小十郎が諫早に来ました。
三月一日の激震頻発から一ヶ月経って、一見沈静化の兆しが見えたかと思われていたところ、四月一日(1792年5月21日)の夜八時過ぎ、激震が突如二回発生。直後に天を突くほどの大音響が響き渡りました。響きは対岸の肥後にも伝わり、やがて津波が三回押し寄せ、第二波は最大で波高は約十メートルにも達しました。津波は有明海沿岸に甚大な被害をもたらし、後年まで世にいう「島原大変、肥後迷惑」です。
この時の様子を「諫早日記」は「昨夜五ツ比(午後七時から九時)山汐津浪出来候にて東目筋海辺の人家田畑破損に及び候」と記録しています。諫早領では竹崎(佐賀県太良町)が大汐(津波)で甚大な被害を蒙り、本倒家拾一軒その外残らず半倒れになり、男女三人死亡(大汐による溺死)。竹崎御番所も崩壊しました。
四月朔夜(一日夜)の津浪による罹災者に対して、諫早領主は翌二日、米、握り飯を支給しました。御番所新築の銭や米、小麦わら、縄等の建築資材も支給しています。
四月五日、神代郡方役の伊東杢左衛門から諫早会所の中嶋九左衛門に書状が届きました。それは、「島原大変で神代へ避難して来た人のうちに、病人、けが人が多いので、外科の医師を神代まで送って頂きたい。至って急場の事であるから延引などないよう即時に三里走りにして、佐賀の諫早領主に達し、急速の間に合うよう取り計らってもらいたい。」というものでした。しかも、追伸に「急病人の事であるから一刻も早くと頼まれているので、独身(単身)でもよいから早く夜分でも手配を頼む。」というものでした。
四月六日、佐賀で雇った外科医田中悦蔵、内科医原田忠益に手男二人、鑓持ち一人、挟箱一人、合羽加こ一人、茶箱一人、駕籠四人を両医にそれぞれ人数と長刀持ちまでつけて旅籠銭百目宛を支給しました。
神代から諫早に避難して来るというので、神代へ警固を派遣することになり、勝良五郎次と毎熊要右衛門の両人で少しの部下を付けました。
四月六日から九日まで、世上不穏ゆえ、御私領中安全の為、荘厳寺、金泉寺、平井坊へ諫早領主から祈祷を言いつけています。(以下略)
<諫早市談より>
  <諫早市談より>

 
 伊能忠敬と諫早

伊能忠敬と諫早
文化年間における徳川幕府の一大文化事業として、伊能忠敬の日本全国実測地図の製作があった。この大事業は伊能という良材を得て、始めて出来たことであり、その成果は世界に誇るべきものであった。全国にわたっての実測であるから、もちろん諫早にも来たわけであるが、当時の諫早湾ないし大村湾、千々石湾等にわたる測量模様の詳記した記録を求めることができなかったのが残念である。忠敬の第一次九州測量は文化六(1809)年で、東海を岸から始め、薩隅を経て西海を廻り、熊本、天草を終わって大分に出て、一応江戸に引き上げ、第二次九州測量は文化八年(1811)十一月二十五日に江戸を発し、一路九州に下ったのであった。この時の一行は総人員十九名からなり、幹部氏名の記録されているのは次の通りである。
   手 伝  坂部貞兵衛       下 役  永井甚左衛門
        今泉又兵衛直利          門谷清次郎
   内弟子  尾形顕治             箱田良助
        保木敬蔵永誉       侍   加藤加平次
        宮野善蔵             渡邊 愼
                    他二十一名坂部附属
   竿取  佐助、甚七、長特宰領久保木右衛門  その他従僕九名(一行十九名)

一月二十五日小倉に到着。前回未了の筑前筑後路より南下し薩摩に入って屋久、種子二島を測量し、五月下旬鹿児島に帰り、それから逆に北行し、筑前北海岸に進み、八月十七日に肥前に入った。佐賀、太宰府、久留米、柳川等の街道を実測し、それより肥前有明海岸とその近くの街道を測量して、文化九年(1812)十一月二日に諫早領に入った。しかして同月六日島原に入り、寛政の雲仙岳爆発(寛政4年:1792)によって出現した小島しょ群の測量に従ったので、諫早領の測量は二、三日で簡単に片付いたものらしく、特記するような事項はない。
<諫早市史(改)>
  <諫早市史>

 
 浮穴の沫媛

浮穴の沫媛(うきあなのあわひめ)
昔は、まきむくのひしろの宮(纒向日代宮)にあめのしたしろめす、すめらみこと(=景行天皇のこと)宇佐濱の行宮に在しまして神代の直(あたい)に詔たまわく、朕諸国をめぐりてはやくことわけ治めたり。未だ朕が治(ことわけ)を被らざる異徒(けしきともがら)ありとのたまえり。神代の直奏つらく、波煙の起てる村はなお治(ことわけ)を被らずと申せり、すなわち直に勅てこの村に遣わし賜うに、土蜘蛛あり。名を浮穴沫媛(うきあなのあわひめ)という、皇命(おおみこと)に桿いて(さかいて)甚く(いたく)無礼(いやなし)。すなわちこれを誅えたり(つみなえたり)。浮穴郷という。
※ 肥前風土記抜粋(読み下し文)

浮穴郷の地を有喜町とする説はほとんど動かないようである。宇佐濱は宇土の誤りといわれ・・・・・
現在の地名「有喜」は旧名「浮亀」と書し、中世頃「宇木」と称し豪族西郷氏の居城のあった由緒の地である。この居城二の丸が地形上亀の形に似ているところから、「亀城(がめじょう)」とも称していた。・・・・・・
また、肥前風土記に現れる、天皇の征討軍に対し抵抗ないし帰順する土蜘蛛その他17人中6人は女酋である。我が国の古代は女酋に勢力があったが、それは邪馬台国女王卑弥呼のように宗教的風習を伴っていたからであろう。一面大和朝廷の統一国家に服従せず、九州における邪馬台国時代の旧政治思想に固執した浮穴のような民族も残っていたと想像される。・・・・・・      <諫早市史 第1巻「浮穴郷」より(改)>

・・・「土蜘蛛(つちぐも)」は統一国家途上にある大和朝の平定に対して頑強に抵抗した手強い士族である。クモは「力強きもの」の意であるクマの転であるとの説もあり、また土蜘蛛は国神として現されることもあり、手強い抵抗者というばかりでなく、地方土着の族といえる。肥前には古くから土着の勢力があり、朝威の伸張とともにその抵抗線となったと考えられる。・・・・・<諫早市史 第1巻「肥前国名の起源」より(改)>
  <諫早市史>

 
 諫早一揆と若杉春后

諫早一揆と若杉春后(いさはやいっきとわかすぎしゅんご)
諫早一揆は寛延三(1750)年、正月から十月にかけて一万有余の武士・農民の参加をえておこされました。動きの主体は農民でしたから昔は百姓一揆といいましたが、通常の百姓一揆と異なり、諫早領主が幕閣の一部をまきこんだ御家騒動に関与した廉で所領の一部を没収されたことに端を発し、家中の士をその指導者として所領の返還を願って幕府に越訴をこころみ、また本藩に強訴をはかるなどした特異なものです。
寛延元年十一月、鍋島宗教が江戸参勤のため東海道川崎宿に到着したとき、蓮池支藩主鍋島直恒らは内密にこれを出迎え、老中酒井忠恭の内意であるとして、宗教の公儀勤役の差控えを伝えました。このため宗教は病気と称して登城せず、自分の隠居と養子の件を幕府に願い出たのです。
事態の推移に疑問を抱いた佐賀藩の重臣鍋島茂英によって事情が明らかにされました。その結果幕閣により酒井忠恭は老中を罷免され、上野国厩橋(前橋)から播磨の姫路へ転封、そして直恒の処分については宗教の心次第という裁決が下りました。
直恒は事が露顕して江戸屋敷に逼塞の身となり、まもなく寛延二年十月急死し、それ以後の沙汰はありませんでした。一方蓮池藩主に加担したとされる諫早家に対しては極めて厳しい処分が行われました。同年十二月、諫早茂行は地米四千国(石高換算一万石)を没収となり、蟄居隠居、家督を嫡子行孝に譲られ、酒井忠恭への使者を務めた横田杢左衛門も領主預けの後切腹を命じられました。
この減地処分に対して、諫早の重臣の中には抵抗をさけてこれに相当する物成四千石を納入することを佐賀本藩に願い出ようとしました。しかし、知行十五石以下の下級武士は現米納入にも反対して、寛延三年正月、家老の諫早五郎太夫に訴状を提出しました。これに対して、前領主の諫早茂行は、今家来たちが騒ぎ立てては家が滅亡することになるので、謹慎するようにと諭しました。しかし家老の三村惣左衛門は強硬派であり、儒者の若杉春后は背後にあって画策し、訴状などを起草しました。
惣百姓一万五千人ほどが勢屯(せいだもり)に集まり鯨波(ときのこえ)をあげて騒ぎ立てて、役人の制止を聞かないまま、正月以来騒動は何ヶ月も続きました。茂行の叔父の鍋島直愈(徹竜)は調停を図ろうとしましたが、うまくいきませんでした。そのうち五月になって四人の農民が日田代官所に赴き、訴状を提出しました。佐賀本藩はこれを知り、四人の百姓の逮捕と佐賀送りを命じました。これを伝え聞いた諫早領の農民は、多良に結集し、六月一日には一万三、四千人にもなり、佐賀へ訴えに行こうとしました。諫早からは三村惣左衛門らが説得にかけつけ、かろうじて惣百姓を引き取らせたのです。
諫早家は佐賀藩と百姓一揆の間に立ち、明確な態度を打ち出しかねていましたが、このとき事態収拾に乗り出したのが鍋島直愈で、諫早領の地米四千石は三ヶ年は佐賀本藩の蔵入とするが、その後は諫早家へ還付するということで事態の収拾を図ろうとしました。これに対し、諫早家の重臣はこれを諒承するとしましたが、農民は拒否しました。こうして直愈の調停は失敗に終わりました。
その後、諫早行孝に対し、諫早に帰って一揆を鎮圧するよう佐賀から命令が出され、佐賀藩からも多久長門が諫早に出動することとなりました。多久長門は八百名の兵を率いて諫早領に入り、四千石の知行地を佐賀に引き渡すことを農民に承服させました。九月に入って一揆の扇動者と考えられていた若杉春后を捕まえました。
そして佐賀への「上地」とされた湯江・犬木・小江・宇良・金崎・遠竹・田古里・大浦・唐比・三町分(江の浦村内)・田結・大草・久山・喜々津の十四か村を佐賀藩に引き渡しました。
十月二十六日、領主諫早行孝は蟄居を命ぜられ、鍋島直愈は呵(しかり)、三村惣左衛門は生害獄門、家老諫早五郎太夫は切腹、若杉春后は磔、これらを含めて五十七人の武士、農民が厳しい処分を受けました。
若杉春后はこの諫早一揆の指導者として徒党を勧め、訴状を書いたという廉で十月二十六日佐賀城外嘉瀬の刑場で磔刑に処せられ、ときに七十三歳でした。
明和四(1767)年六月、佐賀藩祖鍋島直茂の百五十年忌に当たって、藩は諫早茂成に対し、上地四千石を返還しました。二年後、その跡を受け継いだ諫早茂図は明和六年、正林稲荷社の境内に若杉霊神の石祠を建立し、春后の霊を慰めました。いまは高城神社の境内に祀られています。
    <諫江百話より>
→「名所旧跡編」 若杉霊神(わかすぎれいじん)
→「諫早人物伝」 若杉春后(わかすぎしゅんご)
<諫江百話>

 
 浮立の起源

浮立(ふりゅう)の起源
諫早の浮立は、佐賀県・福岡県等で演ずる物と少しく異なるものもあるが、九州各地にあるすべてがその起源を一にするものではないかと思われる。ある者は鎌倉時代に起こった田楽の変化したものであろうと言い、ある者は里神楽の遺風だろうと言い、徳川時代に入ってある国学者は、肥前に行って浮立というものを見たので『・・・里かぐら、月の夜かけて鼓うつなり』と詠じ、その演奏が一糸乱れず実に面白いと書き残している。しかし田楽や猿楽に先立って、浮立に似たものがあったのではなかろうか。筑後風土記には破牟椰舞という舞曲が現れている。
 神功皇后、欲討田油津媛、而自橿日宮南到八女県、航海遷干鷹尾宮、時人歓迎献海鯽魚、奏舞曲、後世号其曲曰破牟椰舞也云々。
この神功皇后歓迎のハンヤ舞が肥後も肥前も伝承され、それが浮立になったものではないだろうか。神功皇后の時代には太鼓はあったであろうが、おそらく鉦は出来ていなかったことと思われるから、ハンヤ舞は太鼓と手振りだけで笛を使ったかどうかも疑わしい。テンヤハンヤと囃しながら、不得要領でいい加減に踊ったのであろう。だから不得要領で日を送るものをテンヤハンヤで日を暮らすといった言葉も生まれた事と思われる。諫早地方にもハンヤ節という古い民謡があるが、これも浮立のあるところにハンヤ(ハイヤ節と呼ぶ地方もある)が謡われる。破牟椰舞に関係あるものかどうかを明らかにすることはできない。ハンヤ舞を源流として数百年間、おそらく農漁村の唯一の娯楽として伝えられ、神事の場合はこれを奉納舞としたのが、後代になり音色良き鉦が加わり、明笛が取り入れられて今日の浮立となり、更に徳川時代に入って諸物資が豊かとなり、浮立の衣装が出来、多くの踊りも加えられて今日の諫早浮立のような華美なものとなってきたのであろう。
<諫早市史第三巻>
  <諫早市史>

 
 佐賀の乱と伊東鼎之介

佐賀の乱と伊東鼎之介(いとうていのすけ)
明治政府の要人だった江藤新平は、征韓論を主張して破れましたので、西郷隆盛らとともに政府を辞職して佐賀に帰りました。
故郷で政府を批判していた江藤新平は島義勇らと心を合わせて、政府を倒そうと明治七年二月に「佐賀の乱」を起こしました。政府は熊本鎮台から征討軍を差し向けたため、浪士と農民の混成ではとても支えきれず、長崎の旧深堀領と諫早に応援を頼もうと、腹心の伊東鼎之介を長崎へ走らせました。
密命を受けて深堀に潜入した伊東は、浪士の間を走り回って支援の約束を得ましたので、次は諫早の家老職を継ぐ予定であった早田快太に嘆願して援軍を得ようと諫早へ急ぎました。
ちょうどその時諫早では、政府に付こうか、佐賀藩への義理から江藤に味方しようかと天祐寺で三日間も激論をして佐賀への情実論と大義名分を唱える一派とが対立したまま大いに紛糾したといいます。
そこで、皇室を奉戴する政府に刃向かえば朝敵になると信じる五人組が決起して、伊東鼎之介を出迎えに行きました。五人組とは諫早では上級家臣だった中嶋藤太郎を頭に、西山隆太、木原頼三、西村斐太、馬場寛蔵らの青年剣士たちでした。
主席家老の嫡子だった早田快太は思慮深い人でしたが、人情に厚い人でもありました。密使の伊東鼎之介は早田の人情にすがって江藤に味方させようと目論んで来たのですが、早田の人情に弱い気質を危ぶむ五人組が機先を制したわけです。
彼らは長崎街道を貝津まで来たとき、長崎から来る伊東鼎之介に出逢いましたので、丁重に迎えて貝津の茶屋で一服したそうです。伊東が早田快太に嘆願すれば早田快太が同情するのは目に見えているので、伊東を暗殺して早田に逢わせないよう謀ったのでしょう。
茶屋を出て伊東と雑談しながら歩く五人組は、道祖神橋を渡るや否や、一斉に斬りかかって伊東の首を打ち落としました。伊東は二十三歳の青年剣士でしたが、まさかの不意打ちで戦う間もなく斬り伏せられたのです。
五人組は伊東の首を布に包んで、長崎県庁へ出頭し、諫早が佐賀の乱に与しない証です、と伊東鼎之介の首を差し出しました。
諫早は佐賀に味方して反乱するのではないかと疑っていた県の役人は生首を見て肝をつぶし、諫早の真意はわかったので持ち帰れ、と受け取りませんので、五人組は首を持って帰って道祖神橋際の絶命した場所に葬りましたが、恨んで討った相手ではありませんので、丁重に葬って冥福を祈りました。その墓は、農林試験場の県立農業大学校前に建っています。
墓碑には正面に佐賀県士族行年二十三歳、明治七戊年二月二十二日、伊東鼎之介之墓と刻んであります。諫早は佐賀の乱とは無関係と思われがちですが、江藤新平の密使伊東鼎之介暗殺を通じても関わりがあったわけです。
    <諫江百話より>
→さやんごぜんの伊東鼎之介の墓
  <諫江百話>

 
 大和朝廷との結びつき

大和朝廷(やまとちょうてい)との結びつき
四世紀に入って大和朝廷が成立し、次々に倭国内の諸族を従えて、四世紀半ばにはほぼ国土統一に成功し、勢いに乗って朝鮮半島に勢力を延ばします。五世紀には倭の五王が次々に中国に使いを送って、自己の立場の強化を図ります。
ところが六世紀に入っても完全には全国制覇できていなかったことを示す大事件が北九州で起こります。筑紫の君磐井(いわい)が新羅攻めを拒み、大和朝廷に反旗を翻します。朝廷は大伴金村・物部あら鹿比を将として、磐井討伐軍を差し向け、筑・火(肥)・豊三国の兵を率いる磐井と大激戦を展開します。諫早地方の豪族たちも磐井軍に参加したと思われますが、磐井は朝廷軍により平定され、六世紀後半には北九州一帯も強力な朝廷支配が浸透していきます。
この頃の諫早の豪族たちは、小野古墳・木秀(きしゅう)古墳・尾首鬼塚古墳などの小規模古墳を残しました。小野古墳には84センチの鉄の長剣を抱いた豪族が眠っており、市史記述によると木秀古墳には、勾玉・管玉・小玉・金管・馬具・須恵器という華々しい出土品がありました。かなりの豪族と考えられ、あるいは渡来人の長であったかもしれません。
ところが563年、任那日本府滅亡以来、七世紀に入って聖徳太子の摂政から645年の大化改新と国造りが進められますが、朝鮮半島における倭軍は後退に後退を重ね、遂に663年、白村江(はくすきのえ)の敗戦によって完全に敗退します。唐・新羅の連合軍の襲来に備え、北九州を中心に山城を築き、防人(さきもり)を配置し、非常通報のための「烽火台」(のろしだい)を築きました。その一つが有喜普賢岳の烽火台です。烽長二人、烽子四人を配置し、野母の肥の御崎や口之津早崎の烽火山からの烟を引き継ぎました。従って当時の橘湾や有喜は国防の第一線であったわけです。
八世紀に入りますと、情勢がやっと落ち着いてきます。国造りの総仕上げとして710年大宝律令を制定し、710年平城遷都が行われます。遣唐使と仏教文化の華々しい奈良時代が展開されていきます。この頃になると諫早地方にも強力な中央権力がおよび、公地公民による条里(じょうり)制が全農地に実施されます。その口分田の名残が小野の金比羅岳地先に発見されました。小野条里といわれる口分田(くぶんでん)跡です。さらに船越の駅(うまや)が置かれました。役人の通行や租・庸・調の徴収路として、古代官道が九州では太宰府を中心に放射状に延びていました。駅の入口には縦長の巨石を建て、それを立石と言いましたので、地名立石は駅に関係があると言われます。古代官道は平地ではほぼ直線上に延びており、広いところは幅数十メートルもあり、両側に側溝を持つ立派な物でした。船越・山田・野鳥と島原半島へ延びていて、「小路」とされていましたので、「駅馬五匹」が準備されていたわけです。このようにして諫早地方も中央集権のしくみに組み込まれていったわけです。さてその古代官道がどこをどう通っていたのか、船越駅がどこにあったかはまだ確定されてはいません。
<諫早を歩く>より
→きしゅうこふん(木秀古墳)
  <諫早を歩く>

 
 伊佐早の地名

伊佐早の地名(いさはやのちめい:肥前の国伊佐早庄)
大分県の宇佐神宮に残された、鎌倉時代初頭の建久八年(1197)に書かれた「八幡宇佐宮御神領大鏡」という巻物の中に伊佐早の地名が初めて登場します。
「肥前国の三根西郷下毛薗と伊佐早村を、本領主藤井宮時が宇佐神宮の検校僧円昭に譲った。円昭はこれを大宮司公基に譲り、さらに次の大宮司職を公通が継いで諸手続を整えた物である。だから宇佐神宮領だ」と書いてあります。上に細かな注記があるのを読んでみると、宮時は領主の権限を全て差し上げたのではなく、名前を宇佐神宮の荘園にしてもらい、その保護によって自分の領地安全を図るという、寄進荘園であることがわかります。また宮時・宮行・宮貞と続く藤井氏は染の貫首(そめのかんじゅ)とありますので、伊佐早在住の土豪ではなく、神宮職員衣服の染師の長ですから宇佐にいたものと思われます。
公基は保安四年(1123)に大宮司になっていますから、少なくともそれ以降寄進が行われたと見るべきです。公通は21年後に大宮司を継ぎ、41年間務めますが、源平合戦の折は平家に味方し、安徳天皇を一時匿ったこともあります。
ところが鎌倉時代になると、仁和寺仏母院御領になっています。いつ頃、どんな事件があってそうなったのかは全くわかっていません。仏母院御領としての最も古い記述は正和三年(1314)の「深江文書」です。仁和寺仏母院御領肥前国伊佐早の庄雑掌が書いた物に、船越村惣領主船越次郎家通の添状を付けて幕府に提出された物で、「船越村地頭職の安富左近将監頼泰が、年々納めるべき年貢等を滞らせているので、文永三年(1266)の実検帳を守って正しく納めるよう。」訴えたものです。ですから、文永三年には仏母院領になっていたと言えます。
仁和寺は平安初期に光孝天皇の勅願で創立され、代々法親王が入られるしきたりになった格式高い寺です。仏母院も鳥羽上皇によって建立され、天養元年(1144)に落慶供養が行われています。従って1144年から1266年までの間に仏母院領になったと言えます。この文書で仁和寺は僧侶の雑掌を代官として派遣して伊佐早の庄の管理を行わせたこと、船越氏は船越村の惣領主であると共に、荘官の役目もしていたことなどがわかります。
一方の安富頼泰は、高来郡に地頭として下向してきた関東御家人で、南高の深江村に居住しました。元寇の勲功によって船越村の地頭職を手に入れています。この事件は荘園内の土地や年貢が地頭によって次第に蚕食されていく様子をよく表しています。
この頃伊佐早庄の範囲は大きく拡がっていました。伊佐早庄内遠竹村、伊佐早庄内長野村、伊佐早の庄内肥の御崎、その内樺島とあるのを見てもわかりますように、諫早・北高全地域を含み、さらに矢上・網場から野母までの橘湾沿岸を含んでいました。
ところが南北朝の争乱が続いていた間に、荘園勢力は完全に消え去り、激しい領主交代がおこなわれて行きます。

<諫早を歩く>より
  <諫早を歩く>

 
 諫早大水害のあらまし

諫早大水害のあらまし
 本明川は標高千五十七メートルの多良岳に源を発し、諫早市のほぼ中心を東に貫流して有明海に注ぐ全長二十二キロの小河川である。
 平常の水量は少ないが、一度大雨に遭うと忽ち氾濫を起こし、この川と共に生活してきた祖先たちも、しばしば洪水の惨禍に悩まされた事実が歴史に見られる。
 「大水が出ないと梅雨(ながせ)は半夏(はげ)ん」と、年に一回は洪水に遭うことを宿命的なのものと地区民は観念しているのであるが、然し昭和三十二年七月二十五日、諫早市を中心に長崎県下を襲った大水害は、わが諫早市にとって未曾有の大惨事であった。
 これは梅雨末期における局地的な集中豪雨で、一昼夜に七百ミリから八百ミリを超える、驚異的な雨量であった。
 昭和三十一年一ヶ月の諫早の平坦部の雨量は千八百ミリであるから、一年間の雨量の約半分が僅か一昼夜に降ったのである。
 加うるに運命の時刻午後十時二十分前後は、三時間で三百ミリ以上の降水量を記録し、僅か十分間で約二メートルの水位の急上昇をみたのであった。当夜、午後八時頃には一時期雨も止み、水も引き、そのまま無事に治まるかと思われたにも拘わらず、再び沛然と降り出した雨は、盆を覆したようなすさまじさで、遂に悲劇的な結果を来してしまったのである。
 特に諫早市が超豪雨に見舞われたのは、南西方面から突入した「湿舌」の先端が諫早市上空にあって、ここで雷雲が最盛段階に達した七月二十五日午後九時から二十六日午前一時の間であったといわれている。
 朝から降り続ける豪雨に、市は本明川の氾濫に備えて、二十五日十四時諫早市水防本部を設置して対策を講じた。この頃既に東部厚生町(現在の幸町)は床下浸水し、十五時には本明川の水量は警戒水位を遙かに突破して三メートル五十を示すに至り、非常サイレンを吹鳴して危険を市民に知らせた。十八時五十分には二回目、十九時三十分の三回目のサイレンが鳴らされた直後、荒れ狂う濁流のために電灯は消え、一切の通信連絡は途絶した。
 水魔は多良岳の山肌至る所を剥ぎ取り、岩石を覆し、大木を押し倒し、上流本野地区の河畔の人家を呑み、田も畑も一面の濁流と化した。勢いを加えた奔流は諫早駅前永昌東町一帯を襲い、多くの人命と家を奪い、四面橋東側上方の堤防を押し切って天満町を突ききり、直線コースをとって高城神社裏の屈曲部、右岸堤防を破壊、更に下方眼鏡橋付近一帯を破壊して市街地に突入した。家が流れる。人が呑まれる。流れる屋根に乗って悲鳴叫喚する人の群れに絶え間ない雷光と豪雨は襲いかかり、この世ながらの生き地獄の姿を呈し、自然の猛威の前に人間の無力、はかなさをまざまざと感じさせられた。
 死者行方不明の数は実に五百三十九名という多数にのぼる。
 一旦の災禍に故なく尊い命を奪われた人々のいまわの痛憤、遺族の方々の胸奥を推察して、ただただ御霊安らかれとご冥福を祈る次第である。
 罹災の様相は一様に深刻惨憺という以外に表す言葉もないほどであったが、中には一家全滅という悲惨な家庭もあり、幼児は九死に一生を得て、両親は死亡されるという気の毒な罹災者もある。十二時間も濁流と豪雨の中に漂い流されつつ、ただ一本の流木にすがり、不屈の精神力を以て命を救われた健気な少女もあった。
 恐怖の一夜が明けた諫早市は、昨日に変わる悲惨な変貌のしかたで平和な緑の町は悪夢のように、死と泥と破壊された家々と、足の踏み場もない夥しい流木、瓦礫の山また山で眼を覆うほどに徹底的にいためつくされていた。
死亡者の年齢性別調べ
  年  齢  別    男性   女性    計
 1歳より6歳まで    59   32    91
 7 〜 18      73   93   166
 19〜 60      64  161   225
 60歳以上       25   32    57
   計        221  318   539

町内別死亡者数
  町   名    死亡者数
  天 満 町     120
  永 昌 町     102
  本   町      54
  高 城 町      43
  八 天 町      36
  八 坂 町      27
  泉   町      17
  本 明 町      17
  東小路町      16
  湯野尾町      12
  本 野 町       8
  宇 都 町       7
  旭   町       7
  城 見 町       6
  栄 田 町       6
  原 口 町       4
  宗 方 町       3
  大 場 町       3
  西小路町       2
  栄   町       2
  厚 生 町       2
  富 川 町       2
  上大渡野町       2
  下大渡野町       2
  船 越 町       1
  上 野 町       1
  東 本 町       1
  福 田 町       1
  金 谷 町       1
  目 代 町       1
  黒 崎 町       1
  長田第二町       1
  正尾第二町       1
  旅 行 者      30
    計       539
  <20周年復興記念誌 より>
  <20周年復興記念誌>

 
 諫江八十八ケ所霊場

諫江八十八ヶ所(かんこうはちじゅうはちかしょ)霊場成立と展開
はじめに
旧諫早市内には17ヶ所もの多くの寺院が現存する。これは江戸時代の領主の仏教保護政策からと考えられる。
さらには、領主の盛んな信仰を反映した多種類の石仏、石造物も多く残され、これらを通して当時の仏教文化並びに民間信仰を知る上で、貴重な文化遺産となっている。
諫早地方の民間信仰の代表例として弘法信仰と観音信仰を挙げることができるが、これらは町の片隅、神社寺院の境内、観音堂や弘法堂、田舎の路傍、あるいは弘法山と称する小粒の山などに多く祀られている。すなわち弘法信仰と観音信仰は、それほどまでに庶民大衆の生活に密着した親しみやすい信仰の対象であったのであろう。
江戸時代からこの二大庶民信仰は時代の推移と共に各種に変化したことは考えられるが、その石仏台座等の紀銘を通して、これらの信仰の盛衰は元禄以前から萌芽成長し、化成年間で揺籃期を迎え、幕末頃に下降線を辿ったものと推考される。しかし、その習俗は根強く現在もなお残り受け継がれ「弘法さん」「観音さん」の愛称で親しまれ、その命脈は息づいている。
   ( 略 )
弘法石像の規模とその所見
 ・・・・・・この霊場は四国八十八ケ所霊場をもじって勧請されたことは明白であり、1番から88番までの札番号・寺院名は四国八十八ケ所霊場のそれとまったく同一で願主の意図は諫早私領一円にくまなく同霊場をもじって設定されたものと・・・・・
総じて石の芸術品とも称される如くこの尊像の石彫技術等からして当時の肥前諫早石工の技術水準の高さを垣間見ることができる。

霊場設置の願主とその財源と経費
 昭和44年の調査開始より最近まで同霊場の設置の目的および願主など不明であったが最近にいたり古文書研究会による郷土関係史料の研究で諫早(藩)の公式記録「諫早日記」により、願主は哲仙院で4年越しの発願であったことが判明した。
 注)哲仙院 諫早家第11代茂図(しげつぐ)の子「敬輝」の室、佐賀本藩8代治茂の姫で天保11年7月23日没
   敬輝  文化6年2月2日没 37歳
 哲仙院は四国八十八ケ所霊場になぞらえて諫早私領中一円に八十八体の弘法大師石像を建立し領内安穏、子孫繁栄と夫の菩提供養の悲願を込めたものであろう。
   ( 略 )
(諫早史談会「諫江八十八ケ所探訪記」より)
  <諫早史談会「諫江八十八ケ所探訪記」>

 
 諫早地方の統一

諫早地方の統一(いさはやちほうのとういつ)
今から五百数十年ほど前、戦国時代の始めのことです。文明六年(1474)島原半島を支配した有馬貴純が大村を攻めた時に、伊佐早の領主西郷尚善(さいごうひさよし)が先手を務めて萱瀬に攻め入ったことが大村の記録に残っています。その後西郷氏は一貫して有馬の武将として肥前の野を転戦しています。
それより八十年ほど前までの南北朝時代には、諫早は二つの勢力に別れていました。埋津川(うめづがわ)を境にして南は宇木城を根拠地にした西郷氏が南朝方に付き、北には船越城に拠る伊佐早氏が北朝方に付いて対立していました。その後、西郷氏がこの地方を統一し、伊佐早氏は上杉氏を頼って越後に移っていきました。当時どんな事件があったのか記録には残っていません。新潟県や米沢市に伊佐早氏の御子孫がいらっしゃいます。
その統一者が西郷尚善と考えられています。彼の統一によって「宇木んもんだ」「小野んもんだ」「俺は長田んもんだ」と言うように、部落共同体意識しかなかった人々に『諫早んもん』という大きな地域共同体意識が形成されたわけです。
尚善は始め船越城にいたのですが、新しく今の諫早公園の地に高城を築いて本城とし、本明川をはさんだ対岸に正林城(しょうばやしじょう)を築いて二の丸としました。さらに領内に十の支城を築いて守りを固めたと諫早市史は述べていますが、実際はもっと砦は多かったものと思われます。その後百年間、三代目が龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)に囲まれるまで一度も外敵の侵入を許しませんでした。十の支城の中には佐賀県杵島郡の長島城があります。有馬氏の先鋒で攻め入ったところ、守備を任された城の一つと考えられますが、その手前の藤津郡方面には大きく勢力を伸ばしていたと見ることが出来ます。
尚善は単に武力に秀でた武将と言うだけではありませんでした。大渡野台地の開墾や真崎の入江の干拓、さらには田原の堤の構築、大渡野用水の掘削など、優れた農業土木の技術を持って大いに殖産興業を進めたのでした。さらに四面宮の整備、阿蘇神社の勧請、天祐寺の創建など、民心の安定にも努めました。中でも特筆すべきは、晩年京都に上って当時最高の文化人であった三条西実隆公に師事して歌を学んだことです。在京連歌師たちと共に、連歌の会に出席し、あるいは自ら主催しています。まさに尚善自身が一流の文化人であったわけです。
<諫早を歩く>より
  <諫早を歩く>

 
 眼鏡橋の架橋

眼鏡橋の架橋(めがねばしのかきょう)
 眼鏡橋は昭和三十二年の洪水後、諫早公園に移され天然記念物として保存されることになったが、もとは安勝寺の下手の本明川上にあり、江戸時代は諫早街に入る唯一の通路であった。文化七年の洪水までは普通の石橋であったが、この時流失して三十年間仮橋ですました。ところが上使の公科巡検使が下降されるとの通知を受け取った諫早では、城下町の玄関である本明川に橋がないとあっては領主の面目に関わるというので、新たに橋を架けることになった。
 そこで公文、中島両人が設計したのは、長さ二十四間、建設費三十貫余で、今までの石橋と何等変わるところはなかったので、せっかく建てるならもっと丈夫な、万代までも残る橋を架けようではないかと決まった。委員たちはあちこちを見て回った結果、長崎の眼鏡橋を手本とすることになり、領主の許しを得たので、天保九年二月に着工した。
 こんな大きな眼鏡橋を造った経験者もなく、費用も今までの石橋の百倍もかかるというので、領主から出る金の不足分は郷民持ちとなり、広く寄附を募ることになった。このため、ある奇特な坊さんは諸方に托鉢して寄附をもらって歩いた。また橋げたの下に人柱にたった人も出たと伝えている。
 石材は主に正林裏山から切り出し、その石があまりに多いので置き場に困り、四面橋脇の道ばたから八天町までずらりと並べたという。各方面から沢山の石工たちを雇って、まず中央の中島に石の土台を構え、両目となる亀甲形の木の枠を組んで、下の方から段々と石を積み重ねていった。切石を運ぶ者、石を積む石工など沢山の人夫が右往左往して工事は進んでいった。天保九年五月から十年八月上旬まで、一年三ヶ月でようやく完成した。 
 
 1,橋  長  二十四間四尺三寸八分(45m)
 2,北  眼  十間五尺二寸六分(11.6m)
 3,南  眼  十間四尺四寸○分(11.3m)
 4,橋  幅  三間○尺○寸七分(5.5m)
 5,橋  高  三間五尺三寸五分(7.0m)
 6,橋の階段  南北合わせ 三十八段
 7,総 工 費  三四五三貫六六○匁(五○七両)

 八月十二日の渡初式には西は大草矢上から、東は多良まで領内六十余の村々から見物人が押し掛けた。橋の中央に祭壇が作られ、神籬を飾り供物を供え、神主の祝詞が済むと両眼の木の枠を取り外した。人々は石を積み重ねただけで崩れはせぬかと、固唾を呑んで見上げた。橋はどっしりと空にそびえ立った。渡り初めの片田江金左ェ門が白装束を付けて、音楽吹奏の中にしずしずと右岸から渡り始めた。人々が崩れはせぬかと一心に見守る中を左岸まで渡り終えた。それから中央の祭壇に引き返し、四面宮を勧請(かんじょう)し、神酒を飲んで、餅をまいた。見物人は手を打ってやんやと喜びの声をあげた。その日から三日間一般人の通行を許したので、恐々としながらも我先にと渡り初めをした。
 その後百数十年、どんな洪水にも揺るぐことなく、名橋として名高く諫早人の自慢となった。
 チョロベー節に、
 諫早ん眼鏡橋しゃ、流れたちゅうとんまことじゃいろ
 コラコラ
 そりがまたほんなことないば
 道ばたの地蔵さんにきいてみなれ
 チョロベー、チョロベー
とある。
                                       <諫早街道をたずねて より>                         →眼鏡橋(めがねばし)
  <諫早街道をたずねて>

 
 江戸時代の諫早の干拓

江戸時代の諫早の干拓(えどじだいのいさはやのかんたく)
 県下最大の平野といわれる諫早平野は、そのほとんどが干拓地です。平成三年には小野公民館から有喜に通じる市道の拡幅工事に伴って、緊急発掘調査が行われましたが、その際小野公民館から南へ百メートルほどの場所の地下一メートル足らずの所で「なぎさ跡」が発見され、人々を驚かせました。ていねいに洗い出されたこの「なぎさ跡」には、無造作に転がった岩にかき殻がこびりつき、昨日まで波が打ち寄せていたのではないかと思われるほどでした。
ここからさらに南へ四百メートルくらい行くと、宗方町の公民館がありますが、ここを昔から土地の人は「ほしば」と呼んでいました。古老たちは地名の由来を、ここは昔網干場だったそうだから、今でも「ほしば」というのだと教えてくれました。現にここの前面に広がる水田を深く掘ると貝殻などを見つけることが出来ます。国土地理院の地図で調べてみますと、この付近に海抜五メートルの線が書き込まれています。この五メートル線をなぞって行き、その内側を海の色に塗ってみますと、諫早平野はすべて海の色で塗りつぶされてしまうのです。まさに干拓の里諫早といえるのではないでしょうか。
さて、諫早の干拓の歴史については土肥利夫氏の研究があり、これによってそのすべてを知ることができます。したがって氏の研究をお借りしながら本稿をまとめることにします。
前述のように、諫早平野のほとんどが干拓地としますと、いつの頃からその耕地化が進んだのでしょうか。小野小学校の北側の水田地帯には二ノ坪・五ノ坪などという小字名がありますが、土肥氏はこれを条里制の遺構であろうと推理しておられます。もしそうであれば、付近の水田は奈良時代まで遡って造成されたことになりましょう。また、深江文書の中にある文章に、干拓地と思われる新田弐町という文言のあるものがあり、その場所は現在の農業高校の東方に隣接する付近ではないかと考えられていますが、はっきりしたことはわかりません。この文書の書かれた年代は元徳二(1330)年ですから、十四世紀の始めということになります。西郷氏が有喜から諫早に進出して高城を築き城下町の形成を始めるのは、十五世紀の中頃と考えられますから、一面葦原であったろう現在の船越田原といわれる水田地帯は、十四世紀ごろから本格的な干拓事業が進展していたものと思われます。もちろんこの頃の干拓作業は、自然陸化した所の葦などを切り開き、簡単な畦で囲い、そこに水を引いてくるというような、簡単な方法であったと思われます。したがってこのころの作業は、干拓作業というよりも開田作業とでもいってよい作業ではなかったかと考えます。
それが、ひたひたと波の打ち寄せる波打ち際に堤防を築いて海岸を締め切り、内側に水田を造成するといういわゆる干拓工事は、戦国時代の終わりごろから始められたと考えられます。現在川内町の開基として崇敬されている山崎教清(やまさきのりきよ)は、それまでの武士を捨てて干拓作業を始めたといわれますし、これに対して諫早の新領主となった家晴は家臣数十人を彼に与えて、その工事を援助したといいます。この話は片手間仕事では出来ない状況があったからで、それなりの経費と人手を必要としたことを物語っているのです。
こうして現在の川内町の集落は天正の頃には既に出来上がっていたと考えられます。川内町は、小野村時代は川内町名でした。市制施行のとき新町名を川内町としたのですが、本当は川内町町にすべきだったのです。この付近の小字をよく調べてみますと、宗方町内に榎木町・扇町・柳井町があり、長野町内に瀬六町、川内町内に堀町と、町のつく小字が五カ所ありますが、これらはすべて島原鉄道沿いにあります。川内町もこれと同じ字(あざ)の一つだったのでしょう。干拓地が沖に拡がるに従って、家が建てられ集落となったものと思われます。
土肥氏は江戸中期の元禄時代になって、小野潟村という名の村が現れると言っておられますが、これが現在の小野島町なのです。ここも川内町と同じように、先ず田が開け、そこに家が建ち集落を形成していったのです。川内町に遅れること約百年です。この頃は世の中も安定し、貨幣経済も一段と進みます。米は最も金になる作物です。従って干拓工事も積極的に進められました。川内町や小野島の集落の近くには、五左衛門篭というような人名の付いた小字がありますが、そこの干拓を推進した人の名でしょう。また篭(こもり)という名が示すように、干拓地をぐるりと囲むような大きな堤防を作り、そこに篭(こ)もって工事を進める状態だったのではないでしょうか。波打ち際に築いた堤防の外には、不思議なことに潟がどんどん溜まってゆきます。三、四十年もすると干潟となり葦などが生えてきます。人々はまたその波打ち際に堤防を築き、次々と干拓地を拡げて行きました。江戸後期になりますと、築堤の工法も進歩し、堤防の設置場所も干潮時のなぎさ線まで前進させて築くというように、海に挑むような工事をするようになってきます。こうなると莫大な経費と人力を必要としますので、諫早領主の直轄工事という形で工事が進められたのです。こうして作った土地には開(ひらき)という名が付けられました。まさしく海を開いて作った土地なのです。この土地には満潮時には海水が押し寄せてきますから、この海水を堰き止めなければなりません。その仕掛けが樋門です。潮が満ちてくると扉が閉まり、潮が引くと内部の水が外に出る。この作動が自動的にできる仕掛けを考え出したのです。
不安定な泥土の上でどんな大波にも耐えられる築堤技術、海水の進入を防ぐ巧妙な樋門の開発、このような人々の努力によって今日の豊かな農地は作られました。
干拓地が拡がるにつれ困ったのは用水の問題でした。後背地に山地の少ない小野地区の水不足は深刻でした。人々は仕方なく土を深く掘り上げ、低いところだけを水田とし、土を盛り上げたところを畑にしました。これを普通に島といいました。そして、せっかく造成した干拓地の半分近くはこの島にしなければならなかったのです。それでも干ばつ被害が毎年のようにありました。この水不足を解消したのが、青木弥惣右衛門(あおきやそううえもん)が指導した半造川底井樋廻水(そこいびかいすい)だったのです。この廻水事業の効果は絶大で、前述の土肥氏の研究によりますと、元禄十五年に畑として使われていた島の面積が、干拓地面積の47.2%にも達していたのが、廻水開設から四十年後の嘉永七年にはほぼ半減し、26%になったとのことです。底井樋廻水の水はそれ自体によって干拓水田を拡げたのです。
    <諫江百話より>
→山崎教清(やまさきのりきよ)
→半造の底井樋(はんぞうのそこいび)
→青木弥惣右衛門(あおきやそううえもん)
  <諫江百話>

 
 諫早文庫

明治時代に由来する文庫。創設者は諫早出身の漢詩人・野口寧斎(のぐちねいさい)であるが、彼は東都の文壇で活躍し、正岡子規との交友などでも知られている人。郷里に対する愛情を忘れず、郷土民の啓発、向上を念願として、そのための文庫を諫早に設置しようとした。この目的のため新聞、雑誌社や書店等に対して図書、文献の提供を要請したり、あるいは懇意の友人に不用書籍の寄贈を求めて諫早に送り、文庫の基礎をつくった。諫早文庫はまもなく書冊も増加して北高来郡立図書館となり、同郡教育会がその運営に当たり、1923年(大正12)に郡制が廃止されると、諫早町役場に引き継がれて、公会堂に備え付けられた。その後1940年(昭和15)市制施行に伴い諫早市に引き継がれ、戦後1948年(昭和23)図書館法の制定により諫早図書館が設けられ、諫早文庫の書冊も同館に吸収された。・・・以下 略
  <長崎県大百科事典>

 
 





















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