※情報を随時追加しております。 [ 最終更新 2009-03-16 ]
|
|
眼鏡橋 |
|
眼鏡橋 ( 重要文化財・高城町 )
諌早のシンボルとして人々に親しまれているこの橋は、水面に秀麗な姿を映す二連アー チ式の階段式石橋である。
文化7年(1810年)、本明川の大洪水がおこり、橋はすべて流失し人々は舟か飛び石を利用して川を渡っていた。ところが幕府の巡検使(じゅんけんし)が訪れることになり、橋がないのは諌早の面目にかかわるとして架橋が協議され、永久に流れない立派な橋をということになり、諌早家第12代領主茂洪(しげひろ)をはじめ領民一同の力を結集して眼鏡橋を造り上げた。
天保9年(1838年)2月に着工し、翌10年8月に完成、以降、大水害にも流されない堅固な橋として先人たちの願いは達せられた。
昭和9年(1934年)の県案内によると、当時から指定文化財へ推す声はあったが、これが 具体化したのは終戦後のことであった。昭和31年(1956年)4月6日に県指定の文化財と なり、その後国指定に向けての申請作業中に、 昭和32年7月25日の諌早大水害に遭った。その後河川改修に伴い、石橋としては国の重要文化財第1号として昭和33年11月 29日に指定されるとともに解体され、現在の場所に移築、 復元された。長さ45m、幅 5m、高さ6m。(諫早市の概要より)
現在、もとの眼鏡橋の場所には「新眼鏡橋」として歩道橋が架けられており、毎年7月25日の川まつりの前の1週間、夜間にイルミネーションで装飾されている。 |
|
<諫早市政概要> |
|
|
|
城山暖地性樹叢 |
|
城山暖地性樹叢(しろやまだんちせいじゅそう;天然記念物・高城町)
諌早公園のある丘陵全体を覆っている樹叢は数十種からなり、ミサオノキ、クスノキ、ハマセンダン、オガタマノキ、ホルトノキ、ヤマモガシなどの巨樹が生育し、特にヒゼンマユミは明治39年に千葉常三郎が発見し、大正2年牧野富太郎が学会で発表した。分布範 囲は鹿児島、大分、福岡、山口、韓国に極限されている。ニシキギ科に属する常緑樹でミカンに似た葉をもち、四稜形の黄熟した果実をつけ、果皮が裂けて赤い種子を見せる。学術的に重要な樹叢である。 |
|
<諫早市政概要> |
|
|
|
多良岳ツクシシャクナゲ群叢 |
|
多良岳ツクシシャクナゲ群叢(天然記念物・高来町)
ツクシシャクナゲはツツジ科の常緑小高木で、葉は長さ15cmほどの長円形の厚い皮質で、裏面に茶色の綿毛が密生、花は「ろうと」の形をし、枝先に十数個集まって咲く。花は淡紅色で4月末に咲く。指定地は多良岳自然公園の中心、小松尾公園である。 |
|
|
|
小長井のオガタマノキ |
|
小長井のオガタマノキ(天然記念物・小長井町 )
モクレン科の常緑樹。高さ20m、根元近くの幹廻りが9m余りあり、オガタマノキでは日本一の巨樹である。2〜3月にモクレンに似た小形で芳香のある紅紫色を帯びた白色花をつける。 |
|
|
|
女夫木の大スギ |
|
女夫木の大スギ(天然記念物・小川町)
高さ約32m、目通り幹廻り9m。昭和27年に県の天然記念物に指定されたが、国内でも樹齢・大きさ・樹形・保存の状況が優れているとして国の天然記念物に指定された。昔は2本の大スギがあり、そのため「女夫木」の地名が生れたと言われている。国の天然記念物に指定されているスギは約40本であるが、このスギの大きさは中位くらいと言われている。県内では最も大きいものである。 |
|
<諫早市政概要> |
|
|
|
明珍作うこん威甲冑一領 |
|
明珍作うこん威甲冑一領 (みょうちんさく うこんおどし かっちゅう;工芸晶・城見町)
代々諌早家の家宝として伝来されたもので、「菊唐草透赤銅金物鬱金威」(きくからくさ すかし あかがねかなもの うこん おどし)の甲冑である。兜は鉄三十間阿古陀(あこだ)形筋鉢(すじばち)で、前立(まえだて)は水晶球に黄金造りの観音菩薩を挿入している。頬当ては鉄打出し烏天狗(からすてんぐ)形である。胴は二枚胴で、火炎光背付の不動明王像を高肉彫りに打出している。裾板、草摺(くさずり)にも龍文を打出しており、金具工芸の技術などに江戸期の趣向をよく示している秀逸な作品である。
諌早家初代龍造寺家晴が豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に着用したものと伝えられている。
(諫早市城見町、慶巌寺所蔵) |
|
<諫早市政概要> |
|
|
|
和銅寺の十一面観世音菩薩立像 |
|
和銅寺の十一面観世音菩薩立像 ( 彫刻・高来町 )
クス材を使用した一木造りで、50年に一度しか開帳されない秘仏である。室町時代の彫像で引き締まった容貌や美しい素木仕上げは、県下の十一面観世音像の代表作の一つで ある。行基菩薩が肥後の橋を7つに切り、これを海に流し、流れ着いた先々で、作った「行基七観音」のーつと言われる。 |
|
|
|
大雄寺の十一面観世音菩薩坐像 |
|
大雄寺の十一面観世音菩薩坐像 (彫刻・富川町 )
高さ32pの坐像で、眉間に白毫(びゃくごう)をはめ、端麗な仏像で室町期の様式をよく示している。
この仏像の縁起は初代竜造寺家晴が豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に拝具したものと言われ、代々諫早家の守り本尊として高城の頂上に安置してあったものを、元文5年(1740年)に第八代茂行が富川を聖地として堂を建立して安置したと言われている。 |
|
<諫早市政概要> |
|
|
|
西郷の板碑 |
|
西郷の板碑 (にしごうのいたび 有形民俗文化財・西郷町 )
板碑は、供養塔のーつとして鎌倉時代から 南北朝時代にかけて、主に関東地方を中心に多く建立されたものである。建久元年 (1190年) に祀られたもので、高さ2m、幅1.28mと大きな部類に属し、諌早地方特有の硬質の砂岩板状石を用いている。碑面上位に胎蔵界大日如来(だいにちにょらい)を示す梵字を、下位左右に毘沙門天(びしゃもんてん)と不動明王を示す梵字をそれぞれ陰刻している。遠く鎌倉文化と諫早地方を支配した船越氏らとの文化交流のあとが伺える資料である。 |
|
<諫早市政概要> |
|
|
|
慶巌寺の名号石 |
|
慶巌寺の名号石(みょうごうせき;有形民俗文化財・城見町)
「南無阿弥陀仏」の名号を正面に薬研(やげん)彫りしている。
右意趣者為法界衆生平等利益也 一結 敬白
辛
貞和七年 四月十三日
卯
と陰刻し、下方に27〜8名の名を刻んでいる。
貞和7年(1351年)は観応2年に当たる。足利直冬(ただふゆ)は観応の年号は使わなかったとされ、直冬の勢力下もしくは支持勢力がこの地にあったことを示している。 |
|
<諫早市政概要> |
|
|
|
諌早神社のクス群 |
|
諌早神社のクス群 ( 天然記念物・宇都町 )
四面宮(「しめんのみや」として古くから人々に親しまれてきた神社で、境内の樹木のうち6本が指定を受けている。拝殿前のクスが特に巨大でご神木として崇拝されている。目通り幹廻り7.8m、高さ25mほどで、ほかの5本は幹廻り4〜7m、高さ30mほどである。江戸時代までは荘厳寺が共に祀られていたが、明治の神仏分離令により荘厳寺が廃され、仁王門は慶巌寺へ、阿弥陀三尊立像は安勝寺へ移された。 |
|
|
|
川頭遺跡 |
|
川頭遺跡(こうがしら:史跡・湯野尾町)
多良山塊中腹の標高360mの高所に立地する。昭和49年に発掘調査が行われ、縄文時代 早期末から前期及び中期の遺跡として注目された。縄文時代早期末から前期の遺構は、直径4mの円形に配置された柱跡3群でこれは住居跡と思われる。中期の遺構は土壙(どこう)3基確認され、底からは阿高式(あたかしき)土器が副葬され土壌墓と考えられる。この時期の住居跡・土壙墓の検出例は九州でもわずかであり、貴重な遺跡として高く評価されている。 |
|
|
|
諌早家墓所 |
|
諌早家墓所(史跡・西小路町)
天祐寺境内にあり、諌早領主歴代の墓18基、正・側室や子息の墓25基、家臣の墓30基、一族の墓4基、雑塔56基、石碑5基、六地蔵石幢4基、石室2基、住職の墓42基、石灯籠177基、弥勒四十九院形式の石柵27基がある。墓石は異形五輪塔とも称すべきもので、火輪の四隅が突出し宝篋印塔(ほうきょういんとう)との折衷的様相の形をしている。領主の墓碑を囲む石柵は弥勒四十九院造り(みろくしじゅうくいんづくり)と呼ばれる珍しい形式である。幕藩時代の墓地形式をよく留めた好例である。 |
|
<諫早市政概要> |
|
|
|
富川のカツラ |
|
富川のカツラ(とみがわのかつら) 県指定の天然記念物 風光明媚な富川渓谷は標高約300m、冬季には里が雨の時は富川は雪といわれるほど寒さが厳しいところである。 大雄寺から徒歩で約10分、川沿いに自生するカツラの木は、根回り8〜9m、高さ約10mと県下最大級のもので、幹は根元から多数の幹が分かれており、地元では「千本木」と呼び親しんでいる。 カツラは、北日本系の代表的な落葉高木で、白樺などとともに繁茂しているが、県内では多良山中に稀に自生しているのみである。 また、この場所は寛延3年(1750年)に発生した諫早一揆の前年、一揆の原因となった第8代茂行公不調法の際、連座した家臣横田杢左右衛門が自刃した地とも伝えられている。 |
|
<諫早市政概要、諫早市の文化財> |
|
|
|
大雄寺の五百羅漢 |
|
大雄寺の五百羅漢(史跡・富川町)
元禄12年(1699)、本明川が大洪水を起こし、死者487名を出した。翌13年は逆に大干ばつで田畑は荒廃し、領民の疲労・困窮は極限に達した。このことに心痛した第7代領主茂晴(しげはる)は、水源の地、富川渓谷の岸壁に、領内の息災と天下の太平を祈願し、また水難者の供養のために五百羅漢を刻んだと伝えられる。竣工は宝永6年(1709)で、500体の羅漢像と3体の如来像が刻まれている。長崎、大村、島原などの寄進を受け、浄財によって工事を行なった。川縁の自然石に176人の寄進者名と
仏師 神代村 常春寺僧 志元
石工 矢上村 鎌山甚兵衛
同 田結村 森与四衛門 同氏軍平等
敬彫刻
五百大阿羅漢
宝永六己丑二月春彼岸日
と刻んである。 |
|
<諫早市政概要> |
|
|
|
熊野神社(津水)の植物群 |
|
熊野神社の植物群(くまのじんじゃのしょくぶつぐん) 暖地性の天然樹叢であり、熊野神社境内の約630uが対象地区である。ブナ科のシイ、カシ、クス科のヤブニッケイ、シロダモ、カゴノキ等の約50種類の植物が群落をなしていて、郷土の木の大部分をここでみることができる。とりわけブナ科のスダジイの高齢樹の樹容は一般にも見られない貴重なものである。また樹陰にはシロミマンリョウが自生しており、このほか10数種類のシダ類を見ることができる。樹叢の中には、樹齢200〜300年ぐらいと推定されるものもある。 |
|
<諫早市の文化財(市教委)> |
|
|
|
御手水観音の磨崖仏群 |
|
御手水観音の磨崖仏群(おちょうずかんのんのまがいぶつぐん) 御手水観音は、古くから観音霊場として知られ、近隣からの参詣者が多く、夏は涼をとる人も多い。参道左手に磨崖仏があり、49躰を数えることができるが、はっきりした縁起などは未だ十分に解明されていない。仏の表情は柔和で線刻のものが多く、技術的には富川の五百羅漢と同じ系統とみることができる。下村孫右衛門、向井半助、富田源蔵などの刻名があり、中には相撲取衆とあるのをみると寄進者と思われる。この磨崖仏群は江戸時代を中心に長年月をかけて彫り込まれたものと考えられる。 |
|
<諫早市の文化財(市教委)> |
|
|
|
善納岩陰 |
|
善納岩陰(ぜんのういわかげ) 人類が岩陰や洞穴で生活するようになったのは、古く旧石器時代より始まる。県内では、福井洞窟や泉福寺洞穴が有名である。諫早地方で発見されたものは善納岩陰が初例で、湯野尾川の近くにあり、岩陰の奥行は約2.8m、間口は約15mある。奥行はより深かったものと推定されるが、上部の石が剥落して狭くなったと解される。出土品の代表的なものは、押型文土器で近くの川頭(こうがしら)遺跡の出土品と類似している。現在、この場所には聖徳太子をまつった大師堂がある。 |
|
<諫早市の文化財(市教委)> |
|
|
|
諫早公園 |
|
諫早公園(いさはやこうえん)
市街地の中心にある緑豊かな場所で、戦国時代に築かれた高城跡を公園としたもの。全山が、国指定天然記念物「諫早市城山暖地性樹叢」に覆われている。山頂には樹齢600年の大クスがそびえ、山腹のつつじは大正時代に市民のボランティアで植えられ、毎年春には花見客で賑わう。中腹に郷土出身の詩人伊東静雄の詩碑がある。
(→諫早人物伝:伊東静雄 →名所旧跡編:眼鏡橋)
写真は上段の大クスと下段の眼鏡橋付近のつつじまつりの風景。 |
|
<諫早観光協会ガイドマップ> |
|
|
|
諫早市郷土館 |
|
諫早市郷土館(いさはやしきょうどかん) 西小路町 昭和56年、諫早家の旧邸宅。多くの歴史民族資料を展示。江戸時代の農機具類、諫早藩に関連する資料や道具類、また、現川(うつつがわ)焼の所蔵品など。2階には、昭和32年(1957年)7月25日の諫早大水害の記録写真が多数展示されている。 |
|
<観光協会他> |
|
|
|
半造の底井樋 |
|
半造の底井樋(はんぞうのそこいび)
諫早の底井樋廻水 諫早地方では江戸時代から干拓が進められており、干拓地には多量のかんがい用水が必要であった。江戸後期の1813年(文化10年)諫早藩士・青木弥惣右衛門は小野島干拓地のかんがい用水の開発を計画し、水源を現在の諫早公園の高城下の山下渕に求めた。この水は今もおおかた残っている用水路に沿って、八百分の一の勾配で小野島へ導かれたが、途中で半造川と交わるため、用水は逆サイホンの原理で半造川の底を通り小野島新田に送られた。工法は厚さ10センチ、幅70センチの松材に切り込みを作って長い1枚板とし、これを4枚組み合わせ、外側は四角な木枠で止めて箱樋を作り干潮時に川底に据えた。このV型の逆サイホン水路が底井樋廻水と呼ばれ、この用水のおかげで小野島新田は良質の米が穫れる水田として開けた。 <長崎県大百科事典より>
(→人物伝:青木弥惣右衛門)
半造川底井樋廻水(はんぞうがわ そこいびかいすい)
栗面橋から半造川(上流は埋津川)の左岸の土手を走って、本明川合流地点から本明川右岸の土手を上り、親和銀行諫早支店裏に至るサイクリングロードが輪内田井原を一周しています。この道が半造川を過ぎて200メートルほどの所に川内町底井樋があります。さらに700メートルほど下がったクリーンセンター近くに、小野島底井樋があります。新蔵屋敷川が真っ直ぐ東進してきますが、この水路が半造川に突き当たったところです。底井樋とは半造川の底に樋管を渡して、輪内田井原の水路の水を落とし、川内町側の水路に上げる仕掛けのことで、水が自然の力で流れるように、逆サイフォン方式を採り入れたものです。もちろんその上は船が通れなければなりません。
この底井樋が出来たのが、今から190年ほど前の文化十年(1813)です。その頃小野島地先の干拓がどんどん進み、用水不足に陥っていました。今までの灌漑は、金比羅岳の麓に幾つもため池を造っていたのですが、それだけでは事足りなくなり、米が作れない上に、せっかく干拓をしても塩抜きもままなりません。ところが半造川の土手から輪内側を見ると、満々と水が有り余っています。山下渕から引っ張った、たった一本の水路が城下を巡らし、その東の田井原全体を潤してなお有り余っていたわけです。「その余り水をもらいたい」と、この年の四月、与力田崎孫右衛門、技術者青木弥惣右衛門の計画を元に小野島の百姓たちが願い出ました。
領主もこれを許し、銭150貫の経費と必要な竹木を与えてこれを支援しました。青木弥惣右衛門は小野島在住の家臣ですが、今までため池の築造や修理などを手掛けてきた土木技術者です。当初役人たちは一遍下がった水がどうやって上がってくるのかと半信半疑でしたが、弥惣右衛門の最初の設計指図書には「測量機がなくとも、例え東方(川内町側)の地面少々高くとも噴水するはず」と自信満々です。この工事は現在の技術者でも簡単にはいかないそうで、水の流量と樋管の径とを正確に計算した上でないと水は上がってこないといいます。弥惣右衛門がいかに優れた技術者であったかがわかります。御沙汰書に「身命抛ち、自費を貢ぎ」とありますように、数々の困難はありましたが、突貫工事が無事成功して、その年の田植えが出来ています。これによって数百町歩の干拓地の米作が可能になったと言います。小野島の氏神天満宮の正面に、これら功労者一同の立派な「頌徳碑」が建てられ、その徳を称えています。
戦後木製底井樋の老朽化に伴い、新しいコンクリートの樋管に作り替えられました。さらに現在は国土交通省の防災工事で、半造川の川幅が倍に拡幅されています。底井樋の名も「蔵屋敷川伏越」となっています。
<諫早を歩く>より |
|
|
|
天祐寺の六地蔵 |
|
天祐寺の六地蔵(てんゆうじのろくじぞう) 諫早市指定文化財 六地蔵石幢(せきとう)、六面幢、燈籠式六地蔵などといわれている。特徴は石を六面にけずり、各々の面に地蔵を浮き彫りにしている。この型は佐賀県、長崎県、熊本県の北部に多くこのため佐賀型と 呼ばれている。 天文10年(1541年)の建立で、諫早地方を西郷(さいごう)氏が支配したころのものであり、龍造寺家の諫早入封以前の石造物として貴重なものである。 |
|
<諫早市の文化財(市教委)> |
|
|
|
島原の乱戦没者追悼碑 |
|
島原の乱戦没者追悼碑(しまばらのらんせんぼつしゃついとうひ:天祐寺)
寛永14(1637)年島原の乱がおこり、諫早茂敬(第三代)は手勢をひきいて出陣した。戦いは激烈を極め、諫早勢も多くの犠牲者を出した。乱鎮圧後、三十三回忌の寛文12(1672)年に諫早では改めて、犠牲者の霊を祀るためこの追悼碑を建立したものである。
この追悼碑は石造り三段の基壇の上に、高さ2.45m、幅0.96mの石碑を載せ、総高3.37mとなっている。そしてこの碑には激戦を物語る碑文と戦没した武士67名、又者14名、百姓11名、計92名の氏名が刻み込まれている。島原の乱の史料として貴重である |
|
<諫早市の文化財(市教委)> |
|
|
|
愛宕山の肥前鳥居 |
|
愛宕山の肥前鳥居(あたごやまのひぜんとりい)
愛宕山には、中世期西郷弾正少弼(さいごうだんじょうしょうひつ)が信心をはげまし、武運長久を祈願して京都の愛宕権現の分社として創建した愛宕社があり、霊験の高い神霊として、江戸時代末頃まで名所・霊場として知られていた。
肥前鳥居は佐賀県を中心に、福岡・長崎などの一部に分布するのもので、木鼻が流線的に延びていること、笠木と島木が一体化していること、笠木・貫・柱が三本継ぎになっていることなどの特徴をもつもので、本市ではあまり見受けられない。
額束は木檗三筆の一人と称される即非(1616〜71)の揮毫で
雪峯頭陀即非書
愛宕山
諫早豊前守藤原茂真立
と記され、17世紀中頃に建てられたものと推される。
なお、諫早豊前守藤原茂真は、諫早四代目の領主で承応元年から寛文12(1652〜72)年まで襲職した。 |
|
<諫早市の文化財(市教委)> |
|
|
|
慶巌寺の磨崖仏三十三観音 |
|
慶巌寺の磨崖仏三十三観音(けいがんじのまがいぶつさんじゅうさんかんのん)
慶巌寺南端の第三紀砂岩の岩はだに、西を起点として33体の菩薩像が整然と彫刻されている。
彫刻にあたっては光背型にえぐり込み、中に菩薩像を半高肉彫りで陽刻する。法量は高さ40センチ、幅25〜30センチほどを測る。その右下には高さ25〜29センチ、幅7〜10センチほどの長方形の彫り込み部を設け「西国三十三所八番」というように番号を陰刻している。
造像は丁寧であり、仕上げも良好である。
造立の縁起については、今一つ明確ではないが、「観音経」に説くように、観音菩薩が33に変化し衆生を救済するという三十三観音思想と、庶民の救いを求める願望が合致して成立したものと思われる。
西国三十三観音は、畿内を中心にしてその周辺一帯に散在する三十三カ所の観音霊場をさす。古くは京都周辺の貴族,富豪の巡拝が主であったが、江戸時代に入ると関東・東北地方にまで巡排塔が存在することから、かなり普遍的に庶民層まで行きわたった風習と思われる。そして、西国巡礼をより簡単に済ます目的、あるいは巡礼供養の目的から各地に三十三カ所観音を造像するようになったとされる。本例もこのような推移のもとに作られたと考えられる。 |
|
<諫早市の文化財(市教委)> |
|
|
|
久山の磨崖仏三十三観音 |
|
久山の磨崖仏三十三観音(くやまのまがいぶつさんじゅうさんかんのん)
南面する第三紀砂岩に彫刻する。光背型にえぐり込み、像容を陽刻する手法は慶巌寺に同じであるが、仕上げは若干稚拙である。
(西国三十三カ所観音の推移については「慶巌寺の磨崖仏三十三観音」の項参照)本例で注目されるのは、巡礼の世話方が施主として記銘されていることである。村内十数名の巡礼の折は、その世話方を決めて行う風習を表しているものと考えられ、観音信仰が広く行きわたったことを示唆している。また、巡礼が一つのレジャー的な要素をも加味していたことは、その人数をして知らしめていると言えよう。 |
|
<諫早市の文化財(市教委)> |
|
|
|
天祐寺 |
|
天祐寺(てんゆうじ) 「坤松山(こんしょうざん)」 曹洞宗 西小路町
本尊仏は釈迦牟尼如来で、その創建は室町時代の末期大永年間ごろ(1521〜1527)といわれ、開基は「天祐宗貴居士」(西郷純堯(さいごうすみたか)の祖父、西郷石見守尚善(いわみのかみひさよし)、寺名もその諡号(しごう;死後に送られる称号)より出たとされている。
その後、天正15(1587)年に龍造寺家晴が豊臣秀吉の命をうけて西郷純堯を討ち、伊佐早城に入り初代藩主となると、天祐寺に73石の寺領を寄進した。
二代直孝(なおのり)のとき天祐寺を菩提寺と定めたが、この時から龍造寺が佐賀藩に属し、領主の姓も地名も「諫早」と改められた。初代龍造寺家晴より第十八代、諫早家興に至る歴代領主並びに奥方・子女等の例を祀る由緒ある寺院である。
境内には本堂はもとよりその他にも山門とその中に安置されている仁王尊、山門に向かって左手高所にある五輪塔、島原の乱戦没者追悼碑、諫早家墓所、天文10(1541)年建立の六地蔵等、貴重なものが多数残されている。
正面に堂々と聳える山門は、慶巖寺の山門と共に江戸時代に建立された諫早における代表的楼門建築で、山門建立の棟上げが宝永5(1708)年4月21日に行われていることは諫早日記によって明らかだが、その完成がいつであるかは今のところ判明していない。
この山門には諫早第11代茂図(しげつぐ)の揮毫になる掲額が金文字で「坤松山」と書かれており、天保6(1835)年7月1日に仁王尊(金剛力士像)(右側の口を開いた像が金剛、左側の閉じている像が力士)が安置された。
次に、三重の台座上に軸石を組合せ、屋根石も5枚から成っている五輪の宝塔は、その銘からして法華教経典一字一石塔で、諫早第四代領主茂真が寛文5(1665)年佐賀藩主初代勝茂(泰成院)の霊を祀るために建立され、当初は現在諫早高校の御所院南方の竹林の中にあったものを天祐寺の境内に移築したものである。(→島原の乱戦没者追悼碑 →諫早家墓所 →天祐寺の六地蔵) |
|
<郷土館解説シート> |
|
|
|
慶巌寺 |
|
慶巖寺(けいがんじ)
諫早市城見町15−19。浄土宗、九品院常楽山慶巖寺。開山の際、蓮社九誉上人礫道が文禄年中(1592〜1596年)博多から諫早に招かれ、慶巖寺屋敷(本諫早駅付近)に創建した常楽寺が前身。第二代諫早直孝(なおのり)の室・慶巖院浩誉慶巖大姉の発願によって慶長10(1605)年、現在の岩小屋の地に移し慶巖寺と改めた。
江戸芝の増上寺末寺に属し、肥前の国の浄土宗僧侶養成道場の位をもち、多くの人材を送り出している。第四代の住職に玄恕(げんにょ)という筑紫琴で有名な僧がいた。「六段の調べ」を創作した城秀(じょうしゅう;後の八橋検校)は若いころ、この寺を訪れ玄恕に師事したといわれる。山門は明治初期の廃仏毀釈によって荘厳寺から移築したものである。第一代龍造寺家晴が朝鮮出兵の際着用したという明珍作うこん威甲冑一領は昭和39(1964)年3月県指定文化財に指定され、庫裡に保存されている。また境内に貞和7(1351)年の名号石(みょうごうせき)があり1981年3月県文化財に指定。(→慶巖寺の名号石 →明珍作うこん威甲冑) |
|
<長崎県大百科事典> |
|
|
|
木秀古墳 |
|
木秀古墳(きしゅうこふん)
木秀の光正寺から更に400mほど南下すると、路傍に巨大な板状石を建てた石室が認められる。大正14年京都大学の浜田耕作博士によって調査がなされたという。市史によれば「この古墳は円墳、石郭は高さ8尺、幅13尺の平滑な自然石を組合せ、其上に盛土してある。出土器は勾玉(瑪瑙)、管玉、小玉、金環、直刀、馬具、刀剣金具、祝部式土器。」と記している。南方に開口する横穴式石室で古墳時代後期の7世紀代の所産である。また、すぐ北側には大部分破壊された横穴式石室の腰石のみが側溝及び道路の下に遺存している。(諫早市の文化財より)
土地の古老の話では、子供の頃に石の屋根の下をくぐって遊んだ記憶があるという。 →大和朝廷との結びつき(やまとちょうていとのむすびつき) |
|
<諫早市の文化財(市教委)> |
|
|
|
高城神社 |
|
高城神社(たかしろじんじゃ)
高城神社は、はじめ諫早公園と市役所の中間(高城公園)に建っていたが、昭和32年の諫早大水害で大破したため諫早公園の現在地に移築された。
神社の祭神は、諫早家初代竜造寺家晴公で、明治15(1882)年の創建。この神社には相殿として竜造寺家晴公が創立された祭神菅原道真公の天満宮も祀られている。これは水害後に天満町から移され、合祀されたものである。
公園頂上に建つ高城明神は、諫早12代茂洪(しげひろ)公が諫早家開祖竜造寺家晴公を祀るため天保13(1842)年に建てた祠である。
幕末までは例年高城頂上で祭祀を行っていたが、明治になって諫早の各村々の人達が話し合って神社を建てようということになり、諫早家お屋敷隣の本明川沿いに建立された。高城明神があるのに新しく神社を建てたので、本明川沿いの高城神社は「新宮さん」と呼ばれるようになった。
境内には大鳥居のほか、大灯籠、狛犬、お手水所の少女のような石作りの人物像がある。以前は、対岸の正林下から神社側の岸まで将棋の駒の形をした飛び石が並んだ風景が見られたが、昭和32年の諫早大水害で壊滅してしまい、本明川拡幅改修で神社敷地も狭くなるため、諫早公園の一角に移設復元されたのが現在の高城神社である。 |
|
<郷土館解説シート> |
|
|
|
若杉霊神 |
|
若杉霊神(わかすぎれいじん)
諫早市高城神社境内。祭神・若杉春后は1750年(寛延3)の諫早百姓一揆で、指導者として藩の圧政と闘った人物である。同年10月26日佐賀城外嘉瀬の刑場で磔刑(たくけい)に処せられた。1767年(明和4)日峯様(佐賀藩祖・鍋島直茂)百五十回忌に当たって、藩は諫早茂成(しげなり:10代領主)に対し、事件の発端となっていた減地4000石の返還を行った。2年後、封を受け継いだ諫早茂図(しげつぐ:11代領主)はその年、正林(しょうばやし)稲荷社の境内に若杉霊神の石祠(せきし)を祀り、春后の霊を慰めた。1882年(明治15)高城神社が創建されるとその境内に移され、1957年(昭和32)の諫早水害後は霊神の石祠は同社とともに現在地に祀られている。
(長崎県大百科事典:長崎新聞社より)
→「諫早の歴史編」 諫早一揆(いさはやいっき)と若杉春后(わかすぎしゅんご)
→「諫早人物伝」 若杉春后(わかすぎしゅんご) |
|
<長崎県大百科事典> |
|
|
|
平松神社 |
|
平松神社(ひらまつじんじゃ)
藩北諫早村下本明平松に鎮座の諫早最古の神社で、社格は村社、祭神は伊邪那岐命(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)である。創建は和銅元年八月で、小祠を建立し、産土神(ウブスナガミ)として鎮祭したことに始まる。古老の伝説によればこの地は諫早の初めに開墾した土地で、民家わずかに数戸の時に本社を創立し、漸次人口の繁殖に伴い、社地を拡げ社殿を増築した。旧記録は発見されないが、破損の石片にも公証となるべきものがあり、また諫早神社の社家馬場氏の祖先は本社の社家から出たとも言われる。付近から古墳や鏃も出てくると言われ、古い集落を証するものがあり、神社の後方の丘陵は城の跡だと伝えられている。慶長年間社地を無税とする恩典を与えられ、現在の境内官有地がこれである。
明治七年五月村社に列せられ、同二月正殿、神楽殿、拝殿を再建し、更に明治四十一年四月、金参千円を投じて正殿、神楽殿、拝殿とも改築した。この改築で拝殿は小さくなった。同年二月正遷宮式を執行し、翌創立一千二百年祭を執行した。本社は鎮座以来維新に至るまで専務の神官を常置せず、諫早神社旧神官が兼務してきたが、指定神社となってから兼務社掌一人奉仕することになった。祭典は九月二十九日の礼祭と祈年祭、新嘗祭である。社殿、正殿は六尺五寸に二間、神楽殿は一間半に二間、拝殿は四間半に三間である。いずれも瓦葺である。
氏子は約二百戸、財産は動産不動産とも若干を有する。 <諫早市史第三巻> |
|
<諫早市史> |
|
|
|
熊野神社(破籠井)と百手祭り |
|
熊野神社(破籠井:わりごい)と百手(ももて)祭り
真津山地区破籠井町の熊野神社は、社格は村社、祭神は熊野権現である。往昔、平家の将讃岐中将伊賀倉左近平時実の一族主従八人は、文治四年十月破籠井に落ちてきて定住することになった。そのところが今の讃州谷(さんしゅうだに)である。建仁二年四月に至り、時実は平家の守護神である熊野権現を現在の山上野林に安置し産土神として鎮祭した。降って元禄九年三月十四日、神祗官領長正三位左兵衛督部兼連から吉谷右近能成、神道裁許状を受け、茲来十数代吉谷弥門に至るまで神官として存続したが、明治三十九年吉谷弥門の死去により藤本喜代太が社掌となった。
初め建仁二年四月熊野権現を野林に安置、鎮祭し、元文二年潤十一月現今の地、野林山麓に移転し神殿、恐殿を新築した。寛政十年三月十九日神殿と拝殿を再建し、明治七年五月五日村社に列せられ同四十三年四月十九日七百年祭を執行し、境内に記念碑を建設した。毎年二月一日百年祭と称して悪魔払いをなし、九月十九日新穀祭を執行する。
<諫早市史第三巻>
二月一日は破籠井の熊野神社の百手祭(ももてまつり)で、古い神事の伝統を今に残しているといわれます。御館山の藤本宮司の手によって神事が始まり、お祝詞奏上の後的射の式に入ります。俗称ブック(イヌビワ)の細木の弓に女竹の矢をつがえて、「神代よりちかいまさしきみことにて、雲井に近き桃の木の里」と神歌を高らかに歌い上げ、エイエイとかけ声を上げて十二本の矢を、正面の鬼と書いた的めがけて射かけます。その矢の通り具合で五穀豊穣を占います。さらに厄払いの人たちを始め村人たちに、天狗に似た鬼の面を頭上にかざして無病息災のお祓いをするのです。
<諫江百話>
(注)
毎年2月1日のローカルニュースで、百手祭りの模様が放映されるのでご存じの方も多いと思います。北バイパスを大村方面へ向かって破籠井交差点から左に入り、下破籠井バス停を斜め左へ進んでいきます。右側に阿蘇宮神社を見ながら道なりに下って開けた場所で川にぶつかります。金網の取水場を過ぎたら橋を渡って細い道路(簡易舗装されています)を300mほど(細い道で車のすれ違いはできません)進んだところの山あいに鳥居があり、階段を登れば熊野神社です。鳥居前は広くなっていて駐車できます。 |
|
<諫早市史、諫江百話> |
|
|
|
大悲観世音像と高城公園 |
|
大悲観世音像(だいひかんぜおんぞう)と高城公園(たかしろこうえん)
昭和32年7月25日の大洪水は一瞬にして539名(平成17年3月合併後の新諫早市としては630名)の命を奪い去った。諫早市では犠牲者の霊を慰め冥福を祈るため水害5周年の昭和37年7月25日、本明川のほとり高城公園内にこの大悲観世音像を建立した。日展評議員、故横江嘉純先生の遺作である。鋳造は東京山内春造氏による。高さは台座を併せて約8m。(観光パンフレット、水害記念誌より)
平成19年4月、50周年を前に高城公園を再整備し、桜やつつじを植えるとともに園路をつくりかえ、この像を南側に10m移動、東向きから本明川を望むように北向きに変更した。写真は移転後の観音像 → 諫早大水害のあらまし |
|
<観光パンフレット、水害記念誌> |
|
|
|
永昌八天霊場(八天神社) |
|
永昌八天霊場(えいしょうはってんれいじょう)
永昌の北外れの丘の上には八天狗の石祠を中心に諸神諸仏が集められ、一大霊場を形成しています。他にも元禄八年(1695)金比羅山頂の巨岩に八天狗と刻んで祀ったのを初めとして、土師野尾の八天岳、もと岡町と言った八天町公園など、江戸時代に諫早各地に祀られています。
諫早地方の八天狗信仰は、塩田の八天神社に基づきます。伊佐早家西郷家の家老山崎丹後守は塩田八天社の出身であったことなどから、戦国時代から塩田と諫早は深い繋がりがあったと言えます。祭神は迦具土神<かぐつちのかみ>(火産霊神<ほむすびのかみ>ともいいます)で、天照大神の母である伊弉冉尊<いざなみのみこと>が最後に産んだ子ですが、激しい火の神であったため、尊はこの子を産む時に全身に大やけどを負い亡くなったと言われています。その後、防火の神様として各地で祀られるようになりました。諫早でも享保三年(1718)岡町の大火を経験していますが、木と竹と紙と藁で出来ている日本の家は、火が出るとひとたまりもなく、防火は人々の大きな願いであったのです。
さて、永昌の八天社は文化三年(1806)の奉斎ですから、今から約二百年前、諫早十一代茂図(しげつぐ)公の時代です。文化元年にはレザノフのロシア船が長崎に来て長崎警護に駆けつけたり、本明川の大洪水で橋が全部流されたりしました。翌四年には領内に砲台五座を設けるなど、物情騒然とした時代でした。単に火難消除だけでなく、領内平穏を祈って建立したに違いありません。
この霊場の中でひときわ目を惹くのは、広場に整然と立ち並んでいる三十三所観音です。これはもと永昌代官所の東下手にあった、約百坪ほどの観音屋敷に建っていたもので、区画整理によってここに移したものです。文化十四年(1817)建立で、最初の観音様には「第一番那智山紀ノ国如意輪堂 施主前天祐寺住職大謙和尚」と銘があります。願主は豊前の国の台岳という人で、永昌宿の有力者島田瀬兵衛らを中心として多くの施主を募って建立しています。
この高台から、本明・目代・天満町方面の多良山麓一帯、さらに手前の栄田の丘などに挟まれた本明川流域地帯が一望できますが、ここはかって平安末期の伊佐早村で、地主藤井宮時によって宇佐神宮に寄進された荘園の中心地です。改めて千年の歴史を辿る想いがします。
<諫早を歩く>より |
|
<諫早を歩く> |
|
|
|
有喜の白髭神社 |
|
有喜の白髭神社(うきのしらひげじんじゃ)
有喜町舟津、六本松から川江橋を渡ったすぐの所に、白髭神社が鎮座しています。祭神は武内宿禰<たけのうちのすくね>です。松里町の熊野神社・天神町の天満神社・早見町の歳神社など他にもたくさんありますが、武内宿禰を祀ったものは他には無く、中通町の権現神社と共に諫早では珍しい神様です。その由来について、諫早市史第三巻には次のように記してあります。
今から千数百年前の大和朝廷の最初の頃の話です。仲哀天皇の時、武内宿禰は神功皇后を補佐して三韓時代の朝鮮半島に出兵しました。凱旋の帰途、たまたま暴風に遭い、宿禰の船は有喜湾に漂着しました。その頃有喜湾は今の有喜の低地深く湾入していて、満潮時には一番奥の天神町木場の下まで海水が流入していたと言います。宿禰の一行はその一番奥に乗り入れて木場に上陸し、船の修理が出来るまでこの地に滞在し、村人たちに読み書きや医療、またいろいろな産業技術を教えたといいます。一行が都に帰った後も、人々は欽慕の念止みがたく、住まいの跡に社を建てて神様に祀りました。白髪・白髭の姿でしたので、白髭神社と称えました。
江戸時代になって、寛永年間(1624〜1643)に、木場から現在の舟津に移したと言います。もとの場所には薬師如来を祀りました。木場の薬師堂です。
日本書紀の記載によって、武内宿禰の在官年数を数えてみると、景行天皇25年から政務・仲哀・応神・仁徳天皇50年に至るまで、五代244年間にわたり、長年歴朝に奉仕した忠誠の臣であることがわかります。その年齢も、数えると300歳を越えることになり、あまりにも人間離れしていますので、半ば伝説的な人物であると言えます。ともあれ武内宿禰は長命・長寿を示す老臣の姿で表され、延命長寿を願う神として人々の信仰を集めています。
彼は第八代孝元天皇の孫と古事記は伝え、紀伊の国に生まれたと言います。その七人の子から、葛城(かつらぎ)・平群(へぐり)・巨勢(こせ)・蘇我(そが)・紀(き)・波多(はた)・江昭(えあき)など二十八氏が出たと伝えるように、大和朝廷の有力な豪族の祖先とされています。また特に、神功皇后やその子の応神天皇に仕えて手柄があった人とされ、応神天皇を祭神とする八幡神社によくあわせて祀られています。
<諫早を歩く>より |
|
<諫早を歩く> |
|
|
|
安勝寺と時鐘 |
|
安勝寺(あんしょうじ)と時鐘(じしょう:ときのかね)
安勝寺の草創の年代は判然としない。由緒書には次のように書き出している。
当寺は年来仏法相承の霊地なり。草創頗る久うして初建の年次を知らず、そのいにしえを尋るに、御地頭の御姫公水中に投じ不意に命終し給う。其菩提のため、唐人町において草庵を建立せしとなり。
これは安勝寺の前身であって、其当時は山号寺号もなく、所謂一宇の茅舎に過ぎなかった。天正の初頃から往持していた善心は、真宗教学に精通していながら、教義弘通の機を得ず嘆じていたが、竜造寺家晴(号道安)が諫早城主になると、現在の境内地に本堂、庫裡、鐘楼を完備して寄附し、慶長十五年領内真宗総道場の辞令が善心に附した。辞令書には道安の名において会している。この辞令書の原本は佐賀市高木町願正寺(鍋島領内の真宗本山)に在って、写しが安勝寺に現存する。慶長十九年、京都本山から寂静山安勝寺の山号寺号が下り、正式の寺院の格式を備えた。従って善心を以て開基とする。当時の境内や建物の情況、配置などは不明である。
元禄年間本堂が改築され、享保五年、時の鐘が藩の要請によって始まった。鐘は第二代藩主諫早直孝の寄進で万治年間長崎で鋳造、貞亨年間多良の鋳工藤原兼成の改鋳になったものである。鐘撞きの維持は米五十石を武士庶民に年一割で貸付け、その利潤によって賄った。ただし、この方法は明治維新にうち切られ、その後安勝寺で経営された。この時の鐘も享保五年始められてから、昼夜間断なく昭和十九年まで撞き続けられ、二百二十余年の間、諫早の土地や住民に親しまれたが、昭和十九年、戦時中の金属供出であたら撤収されてしまった。
明治維新の神仏分離は、計らざる廃仏毀釈の大法難を結果して、国内に廃寺となるもの算なき時代であった。第十代喚命は王政復古に身命を擲ち、佐賀願正寺勤王党や、長州・佐賀の勤王諸家と結び、東奔西走して寺務を顧みなかったため、将に廃寺寸前のところであった。第十一代喚忠は仏家本来の使命を全うし、終身端心正行、五十余年の粉骨砕身の布教は大衆を感動教化せしめ、寺運は興隆し、本山から宣布院と謚号(しごう)された。なお、多忙の身にありながら、明治三十七、八年、日露戦争の国難の中に、多大の困難を制して元禄時代の古堂を解いて、現在輪奐の美を誇る本堂を新築した。庫裡は明治二十年頃再築、鐘楼は元禄時代の建物と思われ、現在東外陣に安置してある弥陀、観音、勢至の三尊仏は四面官荘厳寺の本尊であったが、神仏分離の際、荘厳寺から遷された鎌倉時代の彫刻等身大の優作である。信徒約一千戸。
註 唐人町は現在の唐人廟墓地一帯か、前はこの中心に安勝寺歴代住職や一族の墓域があった。この墓域が安勝寺の前身の一宇であった所ではないか。唐人廟墓地はこの一宇を中心にだんだん拡張されたのではあるまいか。
<諫早市史第三巻> |
|
<諫早市史> |
|
|
|
破籠井の阿蘇宮 |
|
破籠井の阿蘇宮(わりごいのあそのみや)
下破籠井のバス停付近は、長崎街道の一里塚があったところですが、街道はここから右折して、破籠井終点バス停の先から山に入ります。右折しないで西へ真っ直ぐ100メートルほど行った畑の中に三本の椎の古木が立っています。その根元にある石祠が阿蘇宮を祀ったものです。
昔、肥後の武士が罪を得て追放の刑を受け、流れ流れてこの地に住み着いたといいます。村人たちはこの人の清廉潔白な人柄を見て、とても罪を犯した人とは思えない、必ず晴れて無罪放免の日が来るに違いないと信じ、子供達に読み書きを教えてもらって、この武士の生活が立っていくように図りながら、その日が来るのを待っていました。
しかし待ちに待った赦免の使いが来た時には、既に武士は亡くなっていました。人々はたいそう悔しく思い、武士の運命を哀れんで、武士の故郷の神である阿蘇大明神を勧請し、その霊を慰めたと言います。
旧諫早領内にはそれぞれ由緒の異なる阿蘇宮が三つあります。残りの一つが小長井長里の産土神として祀られている、大峰名の阿蘇神社です。長里川の入江が奥深く入り込んでいた奥の丘に鎮座しています。小長井町史によれば、祭神は建磐龍命<たていわたつのみこと>で、弘和三年(1386)長里船津名椋木に鎮祭しました。弘和六年(1386)城崎勧々山に御遷座、享禄元年(1528)四月、大峰の現在地に移したと言います。
弘和元年というと南北朝時代末期で、これが一番古い創立です。各村々に土豪が割拠していて「北朝方だ」「南朝方だ」と対立していた時代です。小長井町史は「肥後の阿蘇氏と関わりがあったらしく」と述べていますが、それ以上のことはわかりません。
あと一つは多良見町化屋の阿蘇神社です。国道筋にある大きな神社ですのでご存じの方も多いと思います。多良見町史によると、天文三年(1534)当時伊佐早一円の領主であった西郷石見守が、今の囲に社を建てて、阿蘇大明神を祀ったのが始まりといいます。多良見町木床と正法寺第二世伝興法師は、この阿蘇神社宮司の子息で、寛永元年(1624)氏子と協力して現在地に移したといいます。それ以来背後の丘陵地を「阿蘇の島」と呼ぶようになったといいます。当時は事実島であった模様です。二の鳥居に「喜々津村中 宮司正法寺 神職松井左近」とあるように、明治初年の神仏分離令までは神仏習合で維持されてきたようです。
ナマズは阿蘇宮の使いだとして両社ともにナマズを食べない風習があり、多良見の阿蘇神社の前には鯰池という大きな池があって、ナマズを捕まえたらこの池に放すのが掟であったといいます。
<諫早を歩く>より |
|
<諫早を歩く> |
|
|
|
阿蘇宮神社(破籠井) |
|
破籠井の阿蘇宮(わりごいのあそのみや)
下破籠井のバス停付近は、長崎街道の一里塚があったところですが、街道はここから右折して、破籠井終点バス停の先から山に入ります。右折しないで西へ真っ直ぐ100メートルほど行った畑の中に三本の椎の古木が立っています。その根元にある石祠が阿蘇宮を祀ったものです。
昔、肥後の武士が罪を得て追放の刑を受け、流れ流れてこの地に住み着いたといいます。村人たちはこの人の清廉潔白な人柄を見て、とても罪を犯した人とは思えない、必ず晴れて無罪放免の日が来るに違いないと信じ、子供達に読み書きを教えてもらって、この武士の生活が立っていくように図りながら、その日が来るのを待っていました。
しかし待ちに待った赦免の使いが来た時には、既に武士は亡くなっていました。人々はたいそう悔しく思い、武士の運命を哀れんで、武士の故郷の神である阿蘇大明神を勧請し、その霊を慰めたと言います。
旧諫早領内にはそれぞれ由緒の異なる阿蘇宮が三つあります。残りの一つが小長井長里の産土神として祀られている、大峰名の阿蘇神社です。長里川の入江が奥深く入り込んでいた奥の丘に鎮座しています。小長井町史によれば、祭神は建磐龍命<たていわたつのみこと>で、弘和三年(1386)長里船津名椋木に鎮祭しました。弘和六年(1386)城崎勧々山に御遷座、享禄元年(1528)四月、大峰の現在地に移したと言います。
弘和元年というと南北朝時代末期で、これが一番古い創立です。各村々に土豪が割拠していて「北朝方だ」「南朝方だ」と対立していた時代です。小長井町史は「肥後の阿蘇氏と関わりがあったらしく」と述べていますが、それ以上のことはわかりません。
あと一つは多良見町化屋の阿蘇神社です。国道筋にある大きな神社ですのでご存じの方も多いと思います。多良見町史によると、天文三年(1534)当時伊佐早一円の領主であった西郷石見守が、今の囲に社を建てて、阿蘇大明神を祀ったのが始まりといいます。多良見町木床と正法寺第二世伝興法師は、この阿蘇神社宮司の子息で、寛永元年(1624)氏子と協力して現在地に移したといいます。それ以来背後の丘陵地を「阿蘇の島」と呼ぶようになったといいます。当時は事実島であった模様です。二の鳥居に「喜々津村中 宮司正法寺 神職松井左近」とあるように、明治初年の神仏分離令までは神仏習合で維持されてきたようです。
ナマズは阿蘇宮の使いだとして両社ともにナマズを食べない風習があり、多良見の阿蘇神社の前には鯰池という大きな池があって、ナマズを捕まえたらこの池に放すのが掟であったといいます。
<諫早を歩く>より |
|
<諫早を歩く> |
|
|
|
安徳天と仁位尼の碑 |
|
島原街道は鷲崎から夫婦木への尾根筋を縦走しています。その街道脇、夫婦木の山嶺の一番高いところにこんもりとした森があり、その中に小さな広場があって「安徳天」と刻んだ碑が建っています。安徳天皇を祀ったものです。
瀬戸内海の入口壇ノ浦で、平家滅亡と共に二位の尼に抱かれて死んだと言われる安徳天皇ですが、実はこっそりと生き延び、ここまで逃れたものの、源氏の追っ手にかかって幼い生涯を閉じられたのだという伝説が残っています。そういう安徳天皇のお墓は全国に幾つもあります。おそらく年頃近い平家の子供達を影武者として、八方に散らせて源氏の追っ手を引きつけ、ご本人はこっそりと安全に落ち延びるという策を練ったものと思われます。例えご本人でなくとも、かわいそうな平家の子供が犠牲になったものと思えば、安徳天皇としてお祀りすることこそ、最もご本人の気持ちを酌んだ慰霊の道だと思います。夫婦木の皆さんが、八百年来お祀りを続けてこられたのも素晴らしいことだと思います。
夫婦木の安徳さんの伝説について、諫早市史第1巻にこう述べてあります。
天皇は壇ノ浦から逃れて、豊前、今の大分県から肥後、今の熊本県の五家ノ荘や米良ノ荘の山中に入られ、さらにその後、有明海を横切って島原に上陸された。しばらく安徳村に足を休めておられたが、なぜかそこに冠だけを残して雲仙岳を越え、串山村・京泊から舟に乗られ、有喜の東部七曲がりの近くに上陸された。「馬落」という断崖絶壁を登られると、愛馬が何に驚いたか竿立ちになって騒ぎ出しました。天皇はとっさに木の枝に飛びついて助かりましたが、馬は崖下に落ちて死んでしまいました。今も血染めの岩があり、その奥の洞窟には馬頭観音が祀ってあります。
一行はそこから鶴田越えして夫婦木の山の背まで来られた所で、源氏の追っ手にかかってことごとくこの山嶺の露と消えられました。村人たちは深くその死を哀れんで、石碑を建てて手厚く葬ったと言います。もと無銘の自然石の小碑が建っていたのを、これではあまりにもお粗末と、壊れた鳥居の笠木端を利用して、安徳天と刻みました。「皇」まで入れるとあまりにも畏れ多いので、天で止め、大黒天・弁財天などのように神名にしたということです。
ここから北へ街道を200メートルほど行った左手森の中に「二位の尼の碑」という大きな無銘の碑が建っています。ここの森も安徳さんの森も、勝手に伐ると祟りがあるという伝説が生きています。二位の尼とは、平清盛の妻時子のことで、安徳天皇の母徳子の親、即ち安徳天皇の祖母になります。
平家の落ち武者伝説は破籠井にもあります。破籠井には遺跡・遺物がたくさんあって、夫婦木と共に、伝説の裏付けを確認できます。ほかに片木や花の木も平家伝説の地ではないかといわれますが、集落の興りが新しくて、どうも違うようです。
|
|
<諫早を歩く> |
|
|
|
公明選挙発祥の碑 |
|
公明選挙発祥の碑(こうめいせんきょはっしょうのひ)
昭和27年4月に執行された諫早市長選に際し、野村儀平氏は公明選挙をスローガンに立候補し、旧諫早市第6代市長に当選しています。それ以来、諫早市は「公明選挙発祥の地」と全国にうたわれるようになりました。
<いさはや市政概要平成21年度版>
諫早公園に隣接する高城公園に『公明選挙発祥の碑』が建立されており、以下のように刻まれている。
[ 野村儀平先生は、明治二十七年、北高来郡小江村に生まれ、長崎師範学校、東京高等師範学校卒業、高等文官試験合格 内務省、北海道、福島県、福岡県の各部長などを歴任、岐阜県知事を最後に退官された。
昭和二十七年、全国にさきがけ「公明選挙」を実践して諫早市長に当選、以来三期十二年間諫早市の発展に大きく貢献された。殊に、昭和三十二年、五百三十九名の人命を失った諫早大水害の復興に献身的な努力をされ、その残された功績は誠に偉大である。
昭和四十九年、諫早市名誉市民の称号を受けらる。
ここに先生の功績を称え、永く後世に伝えるため、寿像を建立する。
昭和六十年四月
野村儀平先生胸像建立発起人会 代表 野田次三 ]
※諫早大水害の犠牲者は当時の諫早市で539名、平成17年合併後の新諫早市では630名
→ 野村儀平 |
|
<諫早市市政概要> |
|
|
|