諫早人物伝

 
※情報を随時追加しております。 [ 最終更新 2009-03-16 ]

 
 伊東静雄

伊東静雄(いとうしずお) 詩人 1906〜1953) 昭和4年京都帝国大学文学部卒業後、雑誌「呂」「コギト」「日本浪漫派」などに詩作品を発表し、同10年10月処女詩集「わがひとに與ふる哀歌」をコギト社より発行し詩壇の注目を浴びる。他に「夏花:同15年」「春のいそぎ:同18年」「反響:同22年」。没後1年を経て、諫早文化協会によって諫早公園中腹に詩碑が建立され、毎年3月には詩人の高雅なる詩風と孤高の詩精神を追慕し「菜の花忌」が開催される。詩碑は詩人三好達治撰・揮毫により、詩編の1節「手にふるる野花は それをつみ 花とみづからを さゝへつゝ 歩みをはこべ」(第2詩集「夏花」所収:「そんなに凝視めるな」)が記されている。
<諫早観光協会ガイドマップ他>

 
 野呂邦暢

野呂邦暢(のろくにのぶ) 作家 1937〜1980 昭和20年、11歳のとき長崎から疎開した野呂邦暢は諫早をこよなく愛し、諫早を舞台に数々の名作を残した。昭和48年に発表した「草のつるぎ」で第70回芥川賞を受賞したあとも諫早を離れず、「諫早菖蒲日記」「落城記」など郷土にかかわる作品を発表したが、昭和55年5月42歳の若さで急逝した。上山公園の文学碑の前で、毎年5月「菖蒲忌」が開催される。
  <諫早近代史・諫早観光協会ガイドマップ>

 
 若杉春后

若杉春后(わかすぎしゅんご)1678〜1750  
江戸時代中期の寛延3(1750)年、諫早領内では、佐賀本藩の圧力に抗議して百姓騒動(諫早一揆とも言う)が発生し、その時の指導者が若杉春后である。彼は元諫早領主に仕えた儒学者で、隠居高齢の身ながら義憤に燃え、本藩の4千石没収の不当を訴えて諫早領民1万数千人を決起させた。鎮圧後捕らえられ佐賀刑場の露と消えた。享年73歳。
 騒動の原因となった4千石は、17年後諫早に返還され、春后らの念願が果たされたことになり、後の世に諫早の義人と称せられている。(諫早史談会:碑文より)
 諫早一揆は、佐賀藩のお家騒動に諫早領主関与したとして茂行が謹慎蟄居、所領4千石減地の処分を受けたため、かねて本藩の圧政に憤激していた諫早領民が春后を中心として立ち上がったもの。春后は自ら起草した百姓名の訴状と諫早家の旧記を添えて、大阪・日田の代官所と長崎奉行所に越訴し諫早領主の養護と旧領保全を策した。一揆は周到細密に計画され1万余の領民は敢然と本藩に立ち向かったが結局鎮圧され、春后は首謀者として磔の刑に処された。(長崎県大百科事典:長崎新聞社より)
 墓所は、西小路町天祐寺南側の丘の上にあり、高城神社境内本堂左手には若杉霊神(わかすぎれいじん)が祀られている。また、天祐寺の山門左手には、諫早義挙殉難者之霊碑がある。
→「名所旧跡編」   若杉霊神(わかすぎれいじん)
→「諫早の歴史編」 諫早一揆(いさはやいっき)と若杉春后(わかすぎしゅんご)
<碑文、長崎県大百科事典他改>

 
 山崎教清

山崎教清(やまさきのりきよ) 生没年不詳 戦国時代末期、伊佐早(現諫早)西郷純堯(さいごうすみたか)の家臣であった。1587年(天正15年)秀吉の島津攻めのとき、従軍しなかった純堯に諫言したが受け入れられず多良山中に隠遁していた。秀吉の命を受けた龍造寺家晴が西郷氏を追放して諫早の領主となってから、教清を家臣にとの要請を「二君に仕えず」と固持し、そのかわり干拓事業の推進を願い出て許された。家晴は75人の家臣をつけて工事に当たらせたという。教清は現川内町地先の干拓に着手し幾多の苦難を乗り越えて完成。県内第一の穀倉地帯の基を築き、近世干拓の祖と仰がれるに至る。威徳を偲び、川内町に「天正年間山崎教清位河内町村開祖」と刻んだ石碑が建立され、今も毎年2月15日に祭典を開いている。
<諫早市の文化財、長崎県大百科事典他>

 
 青木弥惣右衛門

青木弥惣右衛門(あおきやそううえもん) 生没年不詳 現小野島町に在郷した藩士。19世紀初頭、ため池の築造修理、用水路の掘削など干拓地の用水確保に努力を続けた。当時、干拓は著しく進展したが、用水不足のため米作ができない新開地が多かった。彼は城山下の本明川(山下渕)から取水し延々7kmの水路を計画したが、途中舟が出入りする半造川を横切る。そこを独特のサイホン式工法で見事に1813年(文化10年)完成させた。いわゆる半造の底井樋(そこいび)である。藩役人その他多くが危惧し反対する中で、全私財を投じての苦しい工事であった。(→半造の底井樋)
  <長崎県大百科事典>

 
 土橋貞恵

土橋貞恵(つちはしていけい)   多助、永春、知足庵
出 生  安永五年
死 亡  慶応元年五月九日(九十二才)
出生地  諫早市、長田
履歴地  多良金泉寺、佐賀、長崎、北高森山村杉谷
業 績  医業で公益事業に私財を投じた。
  諫早の人物中、他に誇るに足るものの一人で、三才の頃父を失い、五才で母を亡くし、赤貧洗うような中にあっても、よく兄の真作と艱苦に堪えながら成長した。始め、多良の金泉寺につかえて読み書きを学び、十五才の時佐賀に出て、諫早屋敷の下僕となる。二年の後、長崎に出て、吉松道碩の門に入って医術を学んだが、その間刻苦勉励すること十六年、文化五年三十二才にして技大いに進み、業終え、郷に帰り、地を森山に卜して開業した。翁は身を奉ずること甚だ倹で、美衣を求めず、又下女下男を置かず、蓄財に努め、業に励むこと尋常ではなかった。若し貧家より治療を乞う者があると、右に薬ろうを提げ、左には施米を携え、懇ろに医術を施すという慈悲深い人であった。それで資産は日に増し、月に殖え、開業二三十年の後には、富豪に加えられるに至った。尚私財を好古館に贈り、又道路の改修、橋梁の架設、溜池築造等をして大いに公益を広めた。晩年薙髪して知足庵と称して仏門に入り、追福のため、各寺院に田地を寄附した。万延元年に至り、領主は彼の徳行を嘉みして貞恵の号を贈り、その行儀碑を建てて顕彰した。
明治十四年頃、翁の美徳を広く学童にも知らせようとして、行儀碑を諫早小学校に移し、福田渭水頌徳碑と並べ建て、毎年春秋二回の祭典を行っている。
<いさはや人物伝より>

土橋貞恵(つちはしていけい)1776〜1865 
幼名を多助(たすけ)といい、徳行により貞恵の号を賜る。貞恵翁または多助ぼっさんとして親しまれる。  
長田村に生まれ、少年時代の過程の貧困と不幸にもめげず、青年期の長い不遇にも耐え、苦学して長崎で蘭方医学を学び、32歳の時に森山町杉谷で開業したが、成功してもおごることなく倹約を守り、ひたすら世のため人のために尽くし、生涯を通じて「医は仁術なり」を実践した。施米や寄付、寄進などを続け、後年は自費で土木事業を行うなど数々の功績を残した。頌徳碑ははじめ正林下(現金谷町)に建てられたが、明治14(1881)年、諫早小学校校庭(今の市役所前庭)に移され顕彰されている。
<諫早近代史より>
また、旧森山町では毎年5月9日の命日の日に「土橋貞恵翁祭」を小学校で開催し、旧町内の小中学生らによってその遺徳が讃えられている。

※写真と地図は諫早市役所前庭の頌徳碑
→福田渭水(ふくだ いすい)
<諫早近代史他改>

 
 野口弥太郎

野口弥太郎(のぐちやたろう) 1899〜1976 洋画家
 諫早を描いた名作「諫早の眼鏡橋」は昭和32年(1957年)の大水害の翌年に、諫早公園に移設される直前の眼鏡橋を描いています。数点が描かれ、老舗の店中や市役所、市体育館の緞帳に鑑賞することができる。他には晩年に市民センターに制作した大壁画「いさはや」、市に所蔵されている作品では「雲仙」や日本芸術院賞を受賞した「那智の滝」の連作60号がある。(観光協会より)
 諫早出身で、独立美術協会会員。日本芸術院会員。大正11年(1922年)二科展に「女の顔」初入選。野口一刀流と呼ばれる自由闊達な筆触とシックな色調で現代洋画に新世界を開いた。1980年長崎県展に野口弥太郎賞が新設。(長崎県大百科事典より)
  <観光協会・長崎県大百科事典>

 
 さやんごぜんと伊東鼎之介

さやんごぜんの伊東鼎之介(いとうていのすけ)の墓
さやんごぜんは道祖の元(どうそのもと)や賽御前(さいごぜん)といって、道祖神や賽の神を祀った所です。集落の入り口にあって、外からの邪気を追い払って入れないという道教の信仰に基づくものです。日本では猿田彦を祀ったり、庚申塔(こうしんとう)を建てたり、陰陽神を祀ったりしています。長崎街道の小船越入り口にあり、近くに一里塚がありました。そこに並べてある諸神諸仏の中に伊東鼎之介の墓があります。
征韓論に破れて佐賀に帰った江藤新平は、いきりたつ佐賀征韓党に押されて憂国党を率いる島義勇と謀り、明治政府への反乱軍を興します。明治七(1874)年二月のことで「佐賀の乱」といいます。これに対し諫早では、政府に付こうか、旧佐賀藩のよしみで江藤に味方するかで大いに紛糾していました。それを案じた長崎県庁では、密偵を送ったりしていました。政府は熊本の鎮台から征討軍を差し向け、烈しい攻防が続きました。
長崎で編成された諫早・大村の志願士族による県庁軍が佐賀へ向かう途中、江藤の援軍募集の密偵「伊東鼎之介」を捕らえました。長崎へ護送することになった中嶋藤太郎ほか五人の若者たちと、さやんごぜんで斬り合いになり、遂に鼎之介は斬り殺されてしまいました。五人は鼎之介の首を県庁に届けましたので、諫早は佐賀に味方しないものであることを認められたといいます。
鼎之介の遺骸はこの最期の地に丁寧に葬られました。その墓石には「佐賀士族行年廿三歳 伊東鼎之介之墓 明治七戌年二月廿二日」と刻んであります。
かつて久山茶屋の住人であった森茂氏の話ですが、「お祖母ちゃんがいつもこう言って悔やんでいた。あの時私が止めていれば死なんで済んだのに、茶屋の回りをぐるぐる回って、どうしようかと随分悩んでいた様子だった。あんとき、出ていかんで隠れておれと言えばよかった。といつも悔やんでいて、二月の命日が来ると花を持って必ずお参りに行っていた。私もよくついていったものだ」とのことでした。
自分の運命を予感していたのでしょうか。それを振り切って名乗って出た、余程の使命感があったものと思われます。彼は諫早の早田快太に会うつもりでした。早田快太といえば、諫早の主席家老として諫早の明治維新をリードした中心人物で、のちに初代北高来郡長を務めた人です。その快太に頼って何とか援軍を確保したいと思ったのでしょう。しかし志成らずして二十三歳の若さで諫早忠節のあかしにされてしまったのは誠に哀れなものでした。動乱の歴史の犠牲者を手厚く供養し続けたいものです。
<諫早を歩く>
→佐賀の乱と伊東鼎之介(いとうていのすけ)

小船越の総合農林試験場から東へ、東大川にかかる佐代姫橋を渡り右折して80mほど行くと、三叉路の農業大学校飛雲寮の前に「旧長崎街道さやんごぜん」と記された石柱が建っています。その奥、植木に囲まれたところに墓石群があり、奥から2番目が伊東鼎之介の墓です。道路脇に少しですが駐車スペースがあります。
<諫早を歩く>

 
 福田渭水

福田渭水(ふくだ いすい)
渭水は文政元(1818)年に田町(現栄町)で生まれました。渭水というのは雅号で、本名は演益ですが、七郎の名で通っていました。
三歳の時祖父と別れ、八歳で父を失い、その後は祖母と母親の手によって育てられました。この二人は大変に考え深い人で、子供の教育には固い信念を持ってあたりました。
祖母は当時としては有名な諫早の商人で、米や綿などを取り扱っていましたが、商売が上手く、店は年ごとに繁昌し、ついに町の中でも指折りのお金持ちになりました。しかし、この祖母は人柄も良く、学問のことについてもしっかりした考え方を持っていました。
孫の七郎に「世の中ですばらしいと言われる人は、よく勉強して道理を弁えています。読書に心をよせるよう努力しなさい」と、いつも諭していました。
このように恵まれた家に育った渭水は、七歳で清泉寺の高柳家塾に入門、漢詩や火薬の術を修め、二十歳の時京都に上って、頼山陽の門人、牧善助について経書や国史の研究をしました。
二十四歳の時長崎へ来て、オランダ船のことについて研究を深め、国を守ることの重要なことについて人々を説きました。
その後、好古館の教官となって子弟の教育に力を入れる中で、すばらしい才能を持っている者には惜しみなく私財を与え、学問の道をきわめさせました。
こうして世のために尽くしましたが、慶応二(1866)年、四十九歳で病没しました。あたら有為の人材を、いよいよこれからというときに失ったのは、郷土諫早のためにもまことに残念なことでした。その辞世の詩にいわく、
 身を置く、古今の俊英の中
 経学、文章に雄を競わんと欲し
 一事未だ成らざるに天地尽く
 溘焉たり、四十九の春秋
    <諫江百話より>
福田渭水   幼名を七郎、本名は演益。他に恭、検夫等の称号もある。
出 生  文政元年
死 亡  慶応二年五月六日(49歳)
出生地  諫早市栄町(旧田町)
業 績  中央の志士と交わり、詩文・蘭学、砲術の造詣深く、後に好古館の教官となった。
 三歳の時祖父と別れ、八歳の時に父を失い、専ら母と祖母の手で養育された人である。祖母は商才の優れ、米・綿などを売って繁昌し、短期間で財を築いた人であったが、学問についても一応の見識を持ち、「人は学問に励まなくては人のふむべき道も解せない。彼は活動家であるとか此は名声を博した等と噂される人は皆この学問の力による。汝幼くともこの道理を悟って読書に心を寄せ、人に軽侮を受けないように努めなければならない」と、孫の渭水を戒めたという。また祖母は敬虔の念に富み、勤労精神に徹していたので、日頃このような家庭に育った渭水は平素勤勉、厳格で何事にも慎み深く、熟慮断行の人となったのであろう。
7歳で高柳家塾に入門し、孜々として励み、11、2歳の頃には既に漢文を作り、15、6歳の頃には火薬の術を学び、20歳の時に笈を負いて筑豊の地に入り、翌年京都に上り、頼山陽の門人牧善助に経書を学び、傍ら国史も研究した。
24歳の時に下ってオランダ船の戦法や砲術を学び、天保十四年26歳の時郡吏となったが、時あたかも異国船侵入と称して天下の形勢急を告げるときであったから、長崎の高島秋帆に師事して砲術を学び、領主に褒賞されたこともある。後に好古館の教官となって志気を鼓舞し、文弱の風を戒め、子弟の徳行を高めることに努め、自ら私費を投じて聖像を安置し、孔孟の式典を創設した。
<いさはや人物伝より>
※写真と地図は諫早市役所前庭の頌徳碑

→土橋貞恵(つちはしていけい)
<諫江百話・いさはや人物伝>

 
 野口寧斎

野口寧斎(のぐちねいさい) 1867〜1905 
 明治時代の漢詩人。本名弌(いち)、通称一太郎。漢学者・野口松陽の子で諫早市生まれ。幼時父に従い上京、のち漢詩を森槐南(かいなん)に学び、やがて俊英の漢詩人として中央の詩壇で活躍した。その後、不幸な疾患に冒され病床詩人となり、正岡子規らとも交友があった。「少年詩話」「三体詩評釈」「寧斎詩話」などの著作がある。また郷土の啓発のために「諫早文庫」を創設。実弟の島文治郎は京都帝国大学英文科教授になった。
  <長崎県大百科事典>
明治漢詩界の鬼才と謳われた野口寧斎の没後100年を記念して準備が進められ、2008年10月25日、ゆかりの深い諫早市立図書館の敷地内に、寧斎の功績を讃える顕彰碑が建立され、除幕式が行われた。
<長崎県大百科事典>

 
 野村儀平

野村儀平(のむらぎへい)  1894(明治27)年〜1992(平成4)年7月13日
 諫早市名誉市民:功績 (諫早市65周年の歩みより)
野村儀平氏は、昭和27年第6代市長に就任され、以来3期12年の長きにわたり、本市発展のため大きく貢献されました。
なかでも、昭和32年市全域に壊滅的な打撃を与えた諫早大水害の復旧作業、特に本明川の復旧にあたっては、市議会と一体となって国の直轄河川編入に努力し、在職中に大部分の復旧を終え、本市のゆるぎない基礎づくりに献身的努力を重ねられました。
→ 公明選挙発祥の碑
<諫早市65周年の歩み>

 
 





















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