伝承・物語編

 
※情報を随時追加しております。 [ 最終更新 2009-03-16 ]

 
 山下淵の大なまず

山下淵の大なまず
諫早数多く残された伝説の一つに「山下淵の大なまず」があります。
諫早の母なる川、本明川は、北に聳える多良岳を源として一気に南に流れ下り、城山の岩崖にぶつかって淵を形成し、そこから南へと流れの方向を変えて有明海に注ぎ消えていきます。
この淵が山下淵で、今でこそ車が通れる道路がありますが、その昔この城山に高城が築かれていた頃は、切り立った岩崖が今より広くて深い淵に真っ直ぐ落ち込み、自然の要害であったと思われます。

今から420〜30年前、伊佐早(諫早)地方の領主西郷純堯の時代、この山下淵に大なまずが住んでいました。ある朝のこと、その大なまずが白い腹を水面に浮かべて死んでいたという事件が起こりました。
「西郷記」によりますと「・・翌朝山下淵瀬下に長さ二間にあまる大なまず流れ掛かりて有りしを、諸人見付けて目を驚かす・・」あります。(二間とは3m50cm余)
数日後、腹に突き刺されていた鋭い「錐」から栄田村に住む刀鍛冶の仕業?と疑われ調べられました。
栄田村の刀鍛冶というのは中村大蔵という人で、彼は備前国長船で祐定の弟子となって修行した優れた刀鍛冶でした。
ある夜、大蔵のもとに白い着物に白袴をつけた何者かが訪ねてきて、
「錐を一本だけでよいから作ってください」とお願いしました。
不審に思いたずねたところ、
「自分に仇するものがいるのでぜひ必要」と一生懸命頼みますもので、三日後を約束しました。
大蔵は鳥の舌のような鋭い錐を作って待っていますと、かの怪しいものが約束の三日後の夜にやって来ました。
注文の「錐」を渡しますと、とても満足しお礼の言葉と灰吹きの白銀一包みを差し出しました。大蔵は、
「こんな立派な品を、頂戴するわけには参らぬ」と断りましたが、
「ぜひ」と言ってききません。大蔵はますます不審に思い、
「あなたに仇なす者は何か」と訊きますと、
「私は大淵の主である。この淵には大なまずが住んでいて、自分の子供に仇して困る。この錐で大なまずを退治したい。あなたには迷惑をかけない」と約束して立ち去りました。
大蔵は不思議に思いひそかに後をつけていきますと、淵の脇の榎の木によじ登り、そこから真っ逆さまに淵に飛び込みました。
その時の様子は恐ろしいものでした。
翌日「錐」が打ち込まれた大なまずが死んで浮かんでいたのです。
「錐」を手掛かりに調べが行われ中村大蔵は捕まりました。
時の城主西郷純堯は、
「大蔵は不届き者だ。城側の淵で漁をして料理しようとしたことは許せない」と、とても怒りました。側近たちは
「これほどの大なまずに錐を立てることは普通の漁師にはできません。大蔵はただの刀鍛冶です。慎重に調べなさっては」
と申し上げましたが聞き入れられず、命だけは助けられて深海の太田尾村(高来町)に追放されました。
しかしほどなく西郷氏が没落したことから放免され、故郷の栄田村に帰参が叶いました。

数年前諫早市郷土館に「神祗血脈」という一巻が寄せられました。
これは実に大変な一巻でした。巻尾に「永禄十年丁卯五月吉日橘朝臣中村大蔵尉盛利(花印)とあるのです。この一巻こそ大蔵伝授の鍛冶の秘書に違いありません。
中村大蔵という人は実在の人だったと思われます。参考資料「西郷記」「諫江百話」
(郷土館解説シートより)
  <郷土館解説シート>

 
 大亀の由来

大亀の由来
西郷(さいごう)氏全盛の頃のこと、今の本野地区大渡野から、体長70センチ余りもある大亀二匹が献上されたことがある。鶴は千年亀は万年と、昔からめでたいものに使われている亀を贈られて、時の領主西郷尚善(ひさよし)はことのほか喜び、ちょうどその日が亡父の命日にあたっていたので、この甲羅に父母の法名を刻み込み、亀は万年も生き延びると言うから、今後は半造川の主となって、末永く西郷家を守護してくれと言って再びその大亀を川に放ってやった。
ところが尚善の孫純堯(すみたか)の代になって、東目方面から帰城の途中、半造川の土手際に大亀二匹が甲羅を干して、いとも仲睦まじく遊び戯れているのを見た。純堯は「さてさて大きい亀がいるものじゃ。やがては人間でも食べるようになろうから、今のうちに射殺してしまおう」と言って鉄砲を構えた。側近の者や船主はこれを止め、「この亀はご先祖様の御霊と関係深いものである。尚善公は西郷家の繁栄を願って末永く続くように守護してくれと云って、川に放たれたと聞き及んでいる。今もしこの亀を射殺すると云うことになれば、きっとその祟りがあるだろう」と言って諫めた。しかし日頃から強情者で知られている純堯は、「下郎共だまれ、お前たちに何がわかるか」と言葉鋭く退けて、手にした鉄砲を放った。一匹の亀は弾が命中したので、首を長く伸ばし三度舞っててまもなく死んでしまった。他の一匹の亀は儚くも射殺された連れの亀を見て、涙を流して別れを惜しみ、何時までもその場を立ち去ろうとはしなかった。
純堯はその亀もついでにと再び鉄砲を構えたが、射向が悪かったのでそのままにしておいた。そこで前に犠牲になった亀を引き上げてよくよく見ると、果たしてその甲羅に祖先の法名が刻まれていた。純堯はそれをつくづくながめて「さてさて御先祖様は大亀に化身なさったものであろうか」と言ってその亀を海中に投げ込んでしまった。運良く生き延びた方の亀は、そのとき既に海中深く身を沈めて姿は見えなかった。
当時の人々は純堯のこの殺生を見て、西郷家滅亡の前兆ではなかろうかとひそひそ話し合っていた。果たせるかな天正15(1587)年、西郷純堯はもと柳川城主であった龍造寺家晴に討ち滅ぼされ、諫早における西郷家はここに終止符をうったのである。
難を逃れた一匹の亀は、その後もずっと元の住処を懐かしんで半造川から離れなかったが、何時の頃か小野川内町の源八という者が、その亀の穴を極めようと思って飛び込んだところ、大亀は自分の甲羅に彼を乗せて浮き上がってきた。この亀は半造川工事のため、一時長田川の潟際に新しい穴をこしらえて移住していたが、工事完了を知ると再び元の古穴を慕って住み着き、時々馬のように大きい首を出して人々を驚かしていたということである。(諫江傳話:諫早史談より)
  <諫早史談>

 
 玄恕和尚と八橋検校

玄恕和尚と八橋検校
寛永の頃諫早の名刹慶巌寺に玄恕(げんにょ)という名僧がいた。彼は筑紫琴の開祖諸田賢順の正当な後継者とされている。極めて純良な性格の持ち主で、師よりの信頼も大変高く、筑紫琴の秘曲、奥義を伝えられて、その当時随一の名手として全国にその名が知られていた。記録によるとその教えをうけんとするのもが、門前に列をなしたというが、彼はなかなか弟子をとろうとしなかった。
まだ慶巌寺住職となる前に(慶長年間)、江戸に出て修行したことがあった。そのとき知恩院門跡良純法親王の東下にあい、琴を演奏して親王の激賞をうけたことがある。親王は玄恕を伴って京にお帰りになり、後陽成天皇にご紹介になって、宮中で琴の演奏会をお催しになった。そのときの玄恕の妙技に深く感銘なさって「上人位、名琴、阿弥陀尊一体」を賜ったとの記録が残っている。このときの演奏は多くの参会者にも大きな感動を与え、筑紫琴の真価を中央の人達に広く認識してもらうよい機会ともなった。
玄恕和尚はその後故郷に帰ったが、推されて諫早慶巌寺第四代の住職の座についた。彼は仏道に精通した上に、前にものべたように筑紫琴の正当な継承者としても、九州一円はおろか全国的にその名を知られていたのである。
慶長十九(1614)年磐城(いわき)の国(今の福島県平市)の城下町に生まれた城秀(じょうしゅう)は、寛永十三(1636)年、二十一歳のとき京都に上り、寺尾検校(けんぎょう)に師事して山住勾当と称した。ここで盲目の身でありながら、琴や三味などを大変熱心に学んでいたが、なお一層その技を磨こうと思い、その師となる人を探し求めていた。たまたま肥前の国諫早に筑紫琴の達者な名人がいることを伝え聞き、不具の身でありながらひたすら琴を学びたい一心から千里の道も遠しとせず、苦心惨憺の末寛永十六(1639)年、二十四歳のとき、やっと諫早の慶巌寺に辿り着くことができた。
その日はすでに日没後であったためか、寺の門は固く閉ざされていて、中へ入ることはできなかった。そこで盲目の城秀は大変残念に思い、寺の周囲をぐるぐる廻ってみた。時あたかも春の夜のことで、月光はさえて寺の屋根を明るく照らし出していたが、ふと寺の方からいみじき琴の音が響いてきた。夢にさえ浮かんでいた諫早の慶巌寺できく琴の音。城秀の耳にはどんなに感じたことであろう。その音色のよさにしばし陶然としていた城秀は、ようやく我にかえることこの妙なる琴の音にあわせて、はるばる京より携えてきた三味線をひきはじめた。
一方、寺の山門の外に人ありとはつゆ知らず、琴の弾奏に夢中であった和尚も、何処からともなく流れてくる三味の音にしばし耳を傾けていたが、その音が余りにも尋常でないことに感嘆し、扉を開いて外に出てみた。するとそこには一人の行者らしい人が、三味を持って佇んでいたので、その人こそ先刻の三味の主であることを知った。如何にも故ありげな様相であることに気付いた和尚は、その行者を寺の内に招じ入れて、その語るところを詳しく聞き、その熱意のほどに感動した。すぐにも琴の指導をしてくれることを約束してもらったので、城秀はさすがに和尚の人柄に敬服し、それ以来全身全霊をもって琴の稽古に精進した。この間指導をしていただいたのは、単に琴ばかりでなく、古典文学についての教養もうけて、人間として豊かさと深みを加えることができた。城秀はかねてすぐれた音感を持っていたことと、芸道探求のための熱烈な心情と努力を傾けたことによって、意外にも早く琴の技が上達し、数年にして筑紫琴の奥義を極めることができた。
多年の宿望をようやく果たしえて安堵した城秀は、長い年月にわたって懇切に指導していただいた玄恕和尚に対して、ねんごろに謝辞をのべ、慶安の頃(1648)三十三歳で再び京に上った。六角西に居を構え、上永検校城談と称して琴の練習と作曲に磨きをかけた。豊かで鋭い感受性を持つ城秀は、遠い西の国肥前諫早で学んだ筑紫琴の調べを思い浮かべ、それを基本として苦心研究を重ねた結果、ついにあの有名な「六段の曲」その他組唄十三曲を作った。これを後生八橋流とよんでいる。その基本となった玄恕の筑紫琴というのは、前にものべたように諸田賢順によって、唐風の旋律とわが国の宮中に伝わる雅楽風の音律を、渾然一体としてまとめたもので、その奥義がその師賢順より玄恕に受け継がれていたのである。その演奏は主として宮中をはじめ、上流社会、寺院などの宗教行事に用いられ、庶民の音楽としてはかなり縁遠いものであった。最後に城秀は八橋検校と改めたが、ついに貞亨二(1685)年、六月十二日に七十二歳で多彩な一生を終わった。
昭和三十九年十一月十五日八橋検校生誕350周年を記念し、諫早三曲会によって、ゆかり深い慶巌寺の山門の前に「八橋検校六段発祥の地」と記した立派な自然石の碑が建てられた。玄恕和尚と城秀の二人が師弟一体となり、この寺で琴の道にささげた精魂を永久に物語っているかのようである。    <諫早史談より>
  <諫早史談>

 
 のんのこ節と皿おどり

のんのこ節と皿おどり
この踊りは神代の昔からあったのだと説をなす人もあるが、秀吉の朝鮮征伐の後に有田の皿山が発達して、釉薬(うわぐすり)のかかった硬い皿が一般家庭にも使用されるようになってからとする方が確かなようである。皿踊りの発生地についても、玄界灘の孤島馬渡島とも云われるが、今日では西九州ばかりでなく遠く山口県辺りまでも拡がっているとのこと。
「芝になれたや箱根の芝に、諸国諸大名のしき芝に」の歌詞は、他の歌謡のものを借りてうたわれたる場合もあるが、のんのこ節そのものの元歌はこれである。諫早の人が遠隔の土地箱根の芝についてうたうのは、誰しも不審に思うであろうが、このことについては次のような物語が残されている。
江戸時代に徳川幕府の政策として、諸国の大名に命じて江戸まで参勤交代をさせていた。
その頃諫早の領主が参勤交代のため行列を作って、箱根の関所にさしかかった。時は真夏でかんかん照りつける午後のこと。行列は整然と道具を立て、歩調を取りながら関所の前まで来たが、関所の役人からは何の声もかからない。だから行列はそのまま歩調を取って、粛々と関所の前を通過した。ちょうどその頃関所の役人たちは、眠気が差してうとうとと夢でも見ていたのであろう。そのため行列の通過するのに気付かず、行列の最後尾の将が関所の前を通り過ぎようとする頃になって、やっと目を覚ましたのであった。
西国方面の、どこかの大名が上っているのに気が付いた関所の役人たちは、急に慌てふためき大声をあげてどなった。「天下の関所を通るのに道具を立てたままとは一体どうしたことか。上を恐れぬ不届き至極な仕業である。早々に引き返せ」と、普通の場合は道具を立てたまま通ることをしないで、前方に四十五度以上倒すのが礼儀とされている。この行列の最後尾には藩士小柳某がいた。関所の役人にとがめられたが、今更引き返すわけには行かない。たとい小藩といえども面子の問題である。
小柳は少しも慌てず騒がず片肌を脱ぎ、つかつかと歩み寄って関所の玄関に草鞋の足をふみかけ、「今更行列を引き返せとは何事か。それならなぜ最初にとがめなかったのか。掟を破るような油断は誰がした。ぜひとも引き返せというなら、職務を怠ったそこもとらこそ先ず腹を召されよ。さらばわれらの行列も元に返そうぞ」と居丈高に申し述べた。
さすがの関所役人たちも相手にこんな啖呵をきられてはたまらない。どうしても当意即妙の頓知が浮かんでこない。顔も張り裂けんばかりに怒ってみたが二の句が継げない。その間に行列はずんずん進んで見えなくなった。頃合いを見て小柳はやおら肌を入れて丁寧に平伏して次のように挨拶した。
「関所のお役人衆に大変ご無礼申し述べました。今後は十分気を付けますのでどうかお許し願い上げます」と。一応の挨拶が済むと小柳は飛ぶように走って前の行列に追いついた。ものの1キロも行くと行列はやっと駕籠を止めた。
天下広しといえども立道具のままで関所を越したのはわが諫早藩ばかりじゃ。さあここらでひと休みしようと言って路傍の芝に腰を下ろし、お茶や弁当を出し、また酒を酌み交わして旅の疲れをなおした。そのとき藩士の中から歌心のあるものが現れて、即興の歌を吟じたが、それが今に伝わっている「芝になれたや箱根の芝に・・・・」であるといわれている。
このことが起こってから、箱根の関所を通る諫早藩の者は、ここの役人たちからにらまれるようになり、大鳥毛の倒し方についても一々小言を言われた。その頃諫早の川内町に大鳥毛を十間余りも放り投げ、またそれを受け取ることの出来る剛の者がいた。関所の前に来ると大鳥毛を肩代り番として、いきなりさっと放るので、関役人は苦情を言う隙がない。その後藩主のお江戸上りには、大鳥毛係のお供をこの川内町の士にあたらせることになった。そのようなことから浮立のときに使う五段犀という道具は川内町の者のみに許されることになった。
なお芝になれたやの元歌のほかに、替え歌として次のようなものが多く歌われている。
○ ここの座敷は祝いの座敷、鶴と亀がまいあそぶ。
○ 祝い目出度の若松さまよ、枝もさかえて葉も茂る。
○ 踊れ踊れや三十まで踊れ、三十過ぎたら子が踊る。
○ あなた百までわしゃ九十九まで、共に白髪の生えるまで。
○ 揃うた揃うたよ踊り子が揃うた、稲の出穂よりなお揃うた。
○ 飲めや大黒歌えや恵比須、あいの酌取りゃ福の神。
○ 届け届けよ末まで届け、末はつるかめ五葉の松。
○ おどれおどれや品よくおどれ、品のよい子を嫁をやる。
<諫早史談より抜粋>
※ 江島子秋著、「長崎県の民謡巡り」によれば、ノンノコサイサイのはやし言葉は、宮崎県の「神楽せり唄」や三重県の「尾鷲節」にも使われているそうである。また、『芝になれたや』は『芝になりたや』の訛り、『のんのこ』は長崎弁で美しいの意味を『のんのか』というそうで、そこから出たのではないかとのことである。
※この伝承は、江戸時代に参勤交代制がはじまったのは、諫早藩が佐賀藩の家老となった後のことで、諫早藩として参勤交代で江戸に行き来することはなかったはずであり、あくまで伝承としてこの項にいれた。
  <諫早史談>

 
 雪山と逆さ松

雪山(せつざん)と逆さ松(さかさまつ)
江戸時代にも文化・文政の頃を頂点として、打ち続く泰平に世も爛熟の極みに達し、尚武の気風は全く失われて、世はまさに町人の天下でした。諫早地方でもようやく俳諧が庶民の間に流行し、寺や名勝地に集ってしばしば句会が催され、翁塚(芭蕉の句碑)も建てられました。
その頃天祐寺に雪山(せつざん)という美男の青年僧が修行僧としてやってきました。世を挙げて軟弱な世相の中にあって、彼はあくまでも道心堅固、ひたすら禅林の戒律を守って修行に務め、学問に励み、大いに将来を嘱望されていました。ところが、眉目秀麗な雪山の噂は信徒の間から町中へと広まり、以来天祐寺には若い娘たちの参詣が増えたという事です。ちょうどその頃、天祐寺の山門に吸い込まれる立派な女駕籠がよく見かけられるようになりました。御領主の側室で、たまたま佐賀在勤中の御領主の代参に参詣の折、雪山の姿を一目見たときからすっかり恋の虜となっていたのです。その後何かにつけてよく駕籠を寄せるようになり、その都度雪山に法話を所望されます。とは言っても側室は仏前の読経の間も法話も上の空で、ただただ男らしい雪山の顔をうっとりと見つめているのでした。
彼女の想いは月日と共にますます募って行きました。ついには綿々と綴った手紙を送り、あるいは贈り物を使いに持たせ、手を替え品を替えて雪山の歓心を買うことに躍起になりました。しかし雪山の志操は固く、見向きもしません。いかに側室の権力を持ってしても揺るがすことは出来ませんでした。
美女の執心はついに憤怒に一変しました。
「おのれ雪山め、思い知らせてくれるわ」
女の執念の恐ろしさは春三月、御領主のお国入りの翌日に実行されました。その日、天祐寺からの帰りの駕籠の中で、髪を崩し、着物を乱した側室が玄関に駆け込むや御領主に泣きながら訴えました。
「天祐寺の若僧雪山がわたくしに言い寄り、無礼を働きましてござりまする」
御領主は激怒しました。修行僧の身でありながら最愛の側室に手を出すとはと、直ちに逮捕・打ち首が厳命されました。
愛宕山麓(今の宇都墓地)は松籟(しょうらい)が鳴り渡り、どこからともなく桜の花びらが一、二輪、春風に舞っていました。むしろの上に引き据えられた雪山は、無念やるかたなく、一文字に引き結んだ唇の端はぶるぶると震えています。身に覚えのない、しかも僧侶の身として最も恥ずべき女犯の罪をきせられ、師の御坊の嘆願も空しく、ろくに取り調べも受けられずにあたら有為の一生をここに終えるとは・・・。
「南無釈迦尼仏、私は今無実の罪でここに二十八歳の一生を終わろうとしています。これも私の罪深い業のせいでしょうか。御仏よ、私を哀れと思し召すなら、私の潔白の証を現し給え。ここに流される私の赤い血を白く変え、ここにさします松の小枝を空高く茂らせ給え」と念じながら、さっとむしり取った松の小枝を逆さまにえいっと地面に突き刺しました。
「やっ」役人の一閃に、雪山の首が落ちました。ところが見よ、真っ赤であるべき鮮血が真っ白に変わって迸り、かの松の小枝に飛びかかったのでした。しかもこの松の小枝はそこに根付いて青々と成長を続け、大きく根を張り枝を拡げ、ていていと天を指す大樹になりました。人々はこれを「雪山の逆さ松」と呼び、彼の無実を証明する証として大切に育てていきました。
それから星霜百数十年が過ぎ、さしもの大樹もついに樹齢に尽きて枯死したのが大正二(1913)年のことです。土地の人々は雪山の無実の証がなくなってしまったのを残念に思い、有志相計らって逆さ松に代わる証として、立派な雪山の追悼供養碑を建てました。諫早家に一文を草してもらい、碑面に彫りつけてあります。その漢文の碑文を読み下し文にして次に紹介することにします。

   雪山和尚品位(正面)
かつて天祐寺に安居僧(あんごそう)雪山という者有り。故有りて罪の真偽を訂さずして、この地において斬罪に処す。最後に僧語りて曰く、「偽りをもって馘(くびき)らる。出血白からんか」刑せらるるや果たして白血滴々たり。刑後該地に松を植う。後生諺に雪山の松と言う。老木となりおおよそ二百年にして自然と衰えまた枯る。之によりて神仏式を修して伐採す。尋(つ)いで記念追悼の為に碑を建つとしかいう。
大正二年二月   諫 早 家
    <諫江百話より>
※雪山和尚の墓の隣に、諫江八十八ケ所霊場の第一番札所が設けられています

この石仏は、諫早四面宮の荘厳寺境内に奉祀されていたもので、明治初年の神仏分離令によって同寺が廃止になったため、この地に移し祀られたものである。南北交流の要所、宇都(うづ)の地にある荘厳寺は素朴な民衆信仰の拠り所で、そこに第一番の大師像を奉祀された理由もうなずける様な気がする。
<諫江八十八ケ所霊場より==第一番札所>
→ 諫江八十八ケ所霊場  → 諫江八十八ケ所霊場一覧
<諫江百話>

 
 





















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