「商工業復興のあゆみ  兼松 一郎」     諫早大水害20周年復興記念誌より

 木造二階建ての商工会議所は、辛うじて流失をまぬがれたが、一回は書棚が倒れ机は横転、重要な書類は流失し、内部は、入り込んできた泥土と流木でいっぱいである。二階には極度の疲労と不安を抱えた人々が、手形の決済、買掛金の処理、復旧計画の相談に絶え間なく訪れる。合間を見て日本商工会議所への報告書の作成にかかる。私の口述を吉原鶴代さんが筆記していく。
 『一年分の降雨量を一夜にそそがれた諫早市は、千個所以上にわたる山くずれが起こり、一挙に襲った濁流は、商店街を地盤もろとも根こそぎに、あるいは将棋倒しに破壊した。又辛うじて残った店舗や工場もがらんどうに洗われ、その後には泥土と流木が山をなし死者五百三十九名、重傷者千四百五十二名、家屋の全壊流失七百六十四戸、半壊千百八十一戸という大惨事を引き起こしてしまった。当所としても有力な会員や、将来を期待していた若き実業人を数多く失ったが、濁流の中に浮きつ沈みつ助けを呼ぶ声が「さようなら」に変って消えて行ったあの夜の惨状は、経験した者のみが知る恐怖であり悲しみであった。』
これは救助を訴え、商工業者に対する救援対策の問題点を指摘した長い報告書の書き出しである。
 大体まとまったので古場満君が朗読してみる。彼は途中で声をつまらせその先が続かない。三人とも顔を上げる事が出来ない。天に向ってのくやしさと復興せずにはおかないという決意の涙である。
 その時彼は二十四歳、私は三十九歳、事務局は私を含めて男子三名女子三名、管理人一名という少人数であった。
 当所では二十八日に緊急議員総会を開催することを決め、空腹と渇きをおさえながら、どこへ避難しているかわからない議員を探して道路をふさいでいる流失家屋を乗り越え、橋のない川を渡って口頭による招集を行った。
 明けて二十八日、汚れたじゅばんにパンツ一枚長靴や下駄ばきで集まって来た議員を前にして、瀬頭会頭は切々と早期復旧のために一致協力して渾身の力を出そうと力説、議員の目は復興に鋭く輝いていた。
 差し当り手形の決済、買掛金の処理、復旧資材の手当、復旧資金をそれぞれどうするかの問題がある。それには罹災商工業者の実態調査を行う必要がある事を決め、早速活動をはじめる。市役所は食料の供給、遺体の収容、防疫、見舞品の分配、防災事業等で精いっぱいである。
 会議所はだれから依頼された訳でもないが、商工業の復旧のため自ら立ち上がったのである。七月二十九日市内金融機関と協議会を開いて手形の問題を打ち合わせ、決済期日の延期を懇請した。
 七月三十一日には長崎市の日本銀行支店をはじめ、各金融機関等を訪問して状況説明を行った。一方商工業者の災害調査と復旧所要資金の調査票印刷が、諫早市内では出来ないので、長崎で徹夜して完了した。
 八月一日には役員、議員、青年協議会役員の合同会議で調査方法を決定、即日県商工課員五名の協力を得て調査を開始し、八月四日には調査を完了した。商工業者の被災総額は二十五億円に達し、復旧所要資金は十五億七千万であった。
 買掛金の処理については、主要取引のある都市の商工会議所あて電報を打って被災商工業者へ対して同情ある支援をお願いし、会頭名をもって関係商社へ状況報告と協力方を要請した。税務については、減免手続き方法を指導した。
 このころになると国及び党の代表、政府系金融機関の視察団の来訪で多忙を極めた。融資枠(県内の割当枠が中小企業金融公庫三億、国民金融公庫二億、商工組合中央金庫二億、住宅金融公庫三億五千万)の拡大や問題点指摘に懸命の努力を行った。
 畳一枚三千円というデマが飛んだ。他県の悪徳業者の仕業である。
 当所は市内の業者へ一日も早い復旧を呼びかけ、特に生活必需品は民生安定に密接な結びつきがあるので、早急に開店する様すすめると共に、各店の店頭には「適正価格奨励店」「諫早市復興推進店」のポスターをはり、業者の自粛を促すとともに、めいりがちになる人々の復旧についての意欲を喚起した。
 又復旧資材、生活必需品の流通をよくするため関係業者と図り、県及び近接都市並びに関係都市の業者へ懇請して物資導入の促進を図った。いよいよ復旧事業を進める課程で、商工業者にとって三つの大きな問題が起きた。
 その一つは水害から十四日目の八月九日、天満町、城見町、高城町、本町、八天町第一、八天町第二、泉町の七町にわたり区画整理のために建築制限の告知がなされた事である。八月二十一日まで十坪以下のバラック建築は無許可とするが、それ以降は制限するというもので、生活の糧を得、流通の使命をはたそうとしている者にとって非常に永い苦痛が続いた。
 次に新橋の架け替えとかさ上げである。関係者にとってはようやく商売を軌道に乗せかかっている時だけに、痛手は深かった。
 三番目は三十三年五月三十一日現在で、一千万を超す不良債権が出来たことである。
 当時、復旧工事のために地区外から百を超す土木建築業者が入り込んで来たが、これらの業者に対する売掛金三千万に対する三分の一の不良債権はやっと営業を始めた業者にとって、大きな痛手であった。市、県、国に対してそのリストを送り、不良業者に対する発注差し止めを要望したい旨業者に伝え、自粛を促した。
 以上のような経過をたどりながら融資も順調に進み、一歩一歩復旧へと歩を進めたが、当時の政府系金融機関の金利は九分六厘で、保証料を加えると一割一分八厘という高金利であった。
 農林・水産関係にはそれぞれ救済の道が講ぜられているが、中小企業者には何ら救済の方途がないので、政府系金融については利子の引き下げ、一般金融機関の融資については利子補給をしてもらう様運動を展開した。
 三十三年四月四日、法律制定は困難であり行政措置で行う事を閣議で決めたが、具体的な内容については示されなかった。その後五回にわたって上京陳情を行った結果、中小企業対策特別委員会の小委員会で審議されたが、大蔵省の強い反対意見がありなかなかまとまらず、七月五日最終的な大蔵省案として、@諫早市のみに限定されること。A利子補給も利子引き下げも行わない。B支払い困難な者に対して三分一厘を徴収猶予するという事が示された。小委員会でも陳情団もこの様な条件はのめないと強く反発し、繰り返し繰り返し陳情を行った。そして最終的に、七月十八日閣議決定として「諫早地区中小企業災害融資に関する特別措置」が決定された。
 それによると、@中小公庫、国金から融資を受けた者については三十三年八月一日から貸付後三年を経過した日まで利子は年六分五厘とする。A一般金融機関から借り入れを受けている者は両公庫に肩替りを認める。B対象は諫早市及びその周辺地区の、製造業は従業員三十人以下、商業サービス業は五人以下の事業所とする。C特別措置の対象となる貸付資金の限度は三十万円までとする。Dこの特別措置は三十二年七月災害に限り適用する。というものであった。
 血のにじむ陳情運動の割には満足できる措置とは言えないが、以後各地の罹災業者に適用される貴重な前例を作った。
 一年後の七月二十五日には水害一周年追悼会を催し、殉難者の霊を慰めた。追悼会は新たな涙をさそったが、市民の復興への意欲は一層高まった。つづいてその秋の十月十一日には、復興促進諫早秋まつりと銘打って商工会議所初めての会員大会を諫早中学校の講堂で開催し、永かった一年の労をいやし、明日のふるさと諫早の街づくりに一致協力して努力することを決議した。
 夜はのんのこ踊り大会を開催し、七十歳を越すおばあちゃんから小学校低学年の子供まで約二千人にもおよぶ市民が参加した。諫早駅前から栄町の商店街まで、約三時間延長一キロ半に達する踊りの列に、市内は復旧の喜びにわいた。
 こうして諫早市は水害を乗り越え、新しい方向に強い足どりで歩み出したのである。
(諫早商工会議所専務理事)
※写真説明:上 水害直後の東小路町(右端が商工会館)
     :中 拡幅工事中の本明川(上が上流側)
     :下 復興促進秋祭りののんのこ踊りパレード(本町)