「川まつりの思い出  古場 満」     諫早大水害20周年復興記念誌より

 全市民が死の恐怖にさらされた運命の日から、丁度一年目を迎えた昭和三十三年七月二十五日、この日の諫早市は戸ごとに弔旗を掲げ、尊い水魔の犠牲となられた五百三十九の御魂安らかれと全市民が敬虔の祈りを捧げ、想い出も新たに追悼の一日を送った。
 この日の午前十時三十分から市主催の合同慰霊祭が催されたあと、当所は夜八時三十分から災禍の中心となった眼鏡橋上で一周年追悼会を開いた。
 当時、眼鏡橋の周辺は護岸がえぐり取られて足場が悪く、このような場所に多数の市民を集めることは安全の保障ができないと関係機関から強い反対を受けたが、一周年追悼会だけは思い出深い眼鏡橋上で開きたいという当所の強い希望が実って、開催の運びとなった。
 定刻とともに二百五十個の裸電球で飾られた名橋眼鏡橋が夜空に浮び、附近一帯の河原に配置された二千個の万灯は、当所青年協議会の手によって次々に点火された。
 河原にまたたくローソクの灯は、螢火のようにあやしく輝いて、まるで殉難者の御魂がそこここに浮遊するかのような幻想をかもしだす。両岸を埋めた一万五千の観衆からは、せきとして声なく一瞬諫早市全体から音が消えたのではないかと思わせるほどの静寂さである。
 「在天の御魂よ心やすくおでましあれ」と、病みあがりの、今にもくずれそうな姿で当所森副会頭が開会の言葉を述べ、続いて野村市長と毎熊会頭が慰霊の辞を述べられた。
 詩人風木雲太郎氏は水難犠牲者の霊に捧げる自作の追悼詩を涙ながらに朗読、続いて一人息子を水魔に奪われ、六十五歳の老齢であるにもかかわらず再建にがんばっておられる八天町の呉服商西山初一さんが遺族を代表してあいさつを行い、人々の涙を誘った。
 このあと県警のブラスバンドの音楽演奏や、諫早三曲会出演の箏曲六段など、美しい追悼の調べが一年前とは打って変わった本明河原に流れる。
 午後九時三十分、美しく輝き続けた万灯もとぼしくなり、やがて安らかな西方浄土にお帰りになる御魂を美しい花のうてなで送ろうと、慰霊の花火を打ち上げて静かに幕を閉じた。
 この一周年追悼会の開催が発端となって追悼川まつりとなり、毎年七月二十五日には決まって開く諫早川まつりとして市民の祭になった。当時わずか十万円の所要経費であったものが、現在では約二百万の経費を必要とし、諫早市全町がローソク代を寄託して行われるのも、諫早市民にとっては余りにも鮮烈で忘れることのできない、歴史的な行事であるからである。
 さて話は変わるが、当時兼松専務は歴史的な大水害追悼会の企画に頭を痛め、何回も何回も本明川に足を運んで思い悩んだ。
 そしてある日職員を集めて、「河原にローソクを敷きつめたらどうだろう」と提言した。
それは無理だ、ローソクの灯は風に弱く早速扇風機を使って実験してみたが、少しの風でも消えてしまい、とてもものの役に立ちそうにない。
 風に強いローソクは作れないかとメーカーに問い合わせたり、先進都市を調べたりしてみたが、そんな前例はなく、事務局みんなで知恵をしぼって考えた結果、ローソクの外側を中の糸のしんが隠れる程度に西洋紙でぐるっと一巻きして火をつけると、炎が大きい上にちょっとやそっとの風では消えないことがわかった。
第二の問題は開会から行事終了までの時間が一時間とちょっとかかり、その間燃え続けてくれるかどうかだが、これはテストの結果問題ないことが分かった。最後はどうして点火するかがまた最大の難関である。
結局、青年会議所の役員で、元陸軍中尉の毎熊麒一氏が、ビルマ戦線で使っていた「たいまつ」作りのアイデアを提供し、これも無事に解決した。
こうした衆知をしぼった結果、すばらしい「川まつり」が誕生したのである。あれから二十年、諫早市民の脳裏からは次第に痛ましい災禍の思い出がうすくなりつつあるが、五百三十九人という尊い犠牲の上に立って今日の諫早があるということ、川を愛し、川を大切にすることが、怒りを静め郷土を安泰に導くことを忘れずに、特色ある川まつりを大事に守り育てていかなければならないと思う。
(諫早商工会議所事務局次長)    写真は諫早商工会議所所蔵