川まつりQ&A

川まつりをはじめるにあたって市民の要望はあったのですか‌‌‍‌?

☛大水害一年後の7月25日には水害一周年追悼会(ついとうえ)を催し、水難者の霊を慰めました。この追悼会は新たな涙を誘い、市民の復興への意欲は一層高まりました。昭和38年の第6回目からは諫早市の年中行事の一つとして開催されるようになり、諫早三大まつりの一つとなりました。

 

まつりを開催するにあたって市民の協力はあったのですか?

☛まつりを開催するためにはお金が必要です。昭和38年の第6回目から市民の寄付(町内協賛金)によって賄うようになりました。今では、準備その他諸々、千名に上るボランティアの協力によって開催されています。

 

水害の原因であるめがね橋をなぜ移動させてまで残そうとしたのですか?

☛確かにめがね橋は頑丈で堆積した土石や大木が、さらに激しい奔流を起こしたことによって多くの被害を生んだわけですが、この橋は1839年、それまで大きな橋がなかった本明川に当時の領主・領民が永久不壊(ふえ)の願いを込めて架けた石造りのアーチ橋であり市民の思い入れも強くシンボル的な存在だったため、翌、33年に石橋としては日本で初めての国の重要文化財に指定されたものです。現在地の諌早公園内に移築されたのは昭和36年(解体:昭和34年2月〜4月。移築:昭和35年12月〜昭和36年9月)です。

 

なぜ、とうろう(万灯)を流すのですか?いつからですか?

☛630名(旧諫早市:539名、旧森山町53名、旧高来町37名、旧小長井町1名)の水難被害者の御霊を表しています。ローソクの灯りは、幻想的でまるで水難者の御霊があちらこちらに浮遊するかのような幻想を醸し出します。

☛昭和33年の第1回から万灯を流しています。第1回目は、まだ本明川に架かったままの眼鏡橋に250個の電飾と眼鏡橋周辺に(配置&流し合わせて)2,000個の万灯を灯しました。

 

いくつのとうろう(万灯)が流されるのですか?

☛裏山橋から諌早橋間の1,800メートルに総数23,000本(配置18,000本(20cm)・流し用5,000本(18cm)です。23,000本は当時(昭和32年の諫早市の世帯数)。費用は、ろうそくのみで50万円かかっています。

 

流した後どうなるのですか?

☛まつり終了後、ボランティアの方々にある程度まとめてもらい、商工会議所全職員、市役所商工部職員などで、ごみ収集車で回収します。昔はいくつかにまとめて川原で焼却していましたが、環境問題の観点から現在はすべて回収しています。

 

万灯に火をつけるのは誰ですか?

☛二十団体、約700名のボランティアの人たちが万灯の設置から点火、あとの片付けまでやっています。市民の皆様の協力によりこのまつりは成り立っています。サイレン吹鳴のあと、万灯を点火し、式典が始まります。

 

いつから打上花火をするようになったのですか?

☛昭和35年の第3回目からです。

 

何のために花火を上げるのですか?

☛安らかに西方浄土にお帰りになる630名の御霊を美しい打ち上げ花火で送るためにはじめられました。

 

花火を打ち上げているのは誰ですか?

☛打上げ花火は資格がないと扱えないので、専門の花火業者にお願いしています。

 

なぜ、1500発なのですか?

☛このまつりはろうそくが燃え尽きる1時間で終了します。式典に30分かかり、丁度、1,500発は半時間ぐらいで上がるためです。

 

死者を追悼するはずなのに、祭りなのですか?

☛水害一周年の夜から慰霊祭として始まった「諫早・川まつり」も年を重ねるごとに市民の心のまつりとして定着してきましたが、すでに諌早市民の多数の人々が、あの当時の惨状を知らない世代となっています。諫早発展の礎(いしずえ)となられた尊い水難者のご冥福を祈る目的で慰霊祭としてスタートしたこのまつりも半世紀にわたって継続されています。

 

式典の中で演奏されている曲は何という曲ですか?

☛「六段の調べ」です。

 <六段の調べの歴史>

磐城(いわき)の国(福島県)生れの城秀(じょうしゅう)は、幼い時に失明し身を立てるために江戸に出て三味線の稽古に励み、若くして名人といわれるようになりました。琴の勉強をしたいと京都にのぼり、当時第一といわれた法水(ほうすい)に弟子入りし、稽古に励みました。法水に「もう私が教えることは何も無い」とまで言われましたが、もっと上の琴を習いたいと、はるばる肥前の国諫早は慶巌寺の和尚、玄恕(げんにょ)に懇願し弟子入り(1639年24歳の時)を許可されました。そして才能が開花し京都に帰り盲目の最高位検校(けんぎょう)の位を貰って、八橋検校(やつはしけんぎょう)と名乗るようになりました。本明川のせせらぎを思い出しながら作ったのが琴の名曲「六段の調べ」です。

 

「六段の調べ」が演奏されるのはなぜですか?

☛一周年追悼会の時に諌早三曲会が出演し筝曲六段を演奏しました。美しい追悼の調べが1年前の未曾有の大水害時とは打って変って静に本明川原に流れました。それ以来、現在まで「六段の調べ」が演奏されています。

 

第一回の開催日は?

☛昭和33年7月25日、午前10時30分から市役所主催の合同慰霊祭が開催されたあと、商工会議所は夜8時30分から濁流の中心であっためがね橋上で一周年追悼会を開きました。これが第一回目の川まつりです。

 

昔と今のまつりの様子の違いはありますか?

☛基本的には水難者の御霊に対しお祈りするという点では昔も今も変わりはありません。残念ながら、大水害を知らない人の中には、単なる花火大会と思われている方もいらっしゃるようです。

 

水害被害者は祭りをどう思っていらっしゃいますか?

☛この「諫早・万灯川まつり」を迎えるとその当時の大惨事を思い出されています。このような災害は諫早市民にとって風化させてはいけない事実で、7月25日は遺族をはじめ、市民は諫早の発展の礎になられた御霊に対する祈りの1日となります。